下町育ちのお針子は竜の王に愛される〜戴冠式と光の刺繍〜
ユリシーズが指した方向には、会場の片隅で腕を組んで壁にもたれ掛かっているアベルがいた。彼は静かに目を瞑り、微動だにしない。
「あれがあいつの仕事だ」
「仕事……?」
「今日は来賓も多いからな」
「はあ……」
「ライアンが前に言っていただろう?アベルは地獄耳だって」
「そう言えば前にそんなこと言ってたような」
「アベルは人の何倍も聴力が優れているんだ。それで会場の怪しい動きがないかを聴いてチェックしている」
ニコラが驚きの表情に変わる。
「ユリシーズ殿下、それって」
「アベルもハルヴァだ」
ユリシーズがそう言った瞬間、アベルがこちらを思いっきり睨んだ。
「ほら、地獄耳だろう」
「ユ、ユリシーズ殿下、それ、言っちゃ駄目なんじゃ……」
アベルがすごい形相で睨み続けてくるが、気にしない。
ユリシーズは構わず続ける。
「アベルがハルヴァと知っているものは少ない」
「ぜ、全然わかりません。ライアンさんみたいに耳があるわけじゃないし……」
「あいつは隠しているが、実は耳があるんだ。髪のように見せているが、横の毛、あれは耳だ」
「え!そうだったんですか!?」
ニコラは好奇心に負けてアベルを見た。アベルは気まずいのか視線を逸らす。
「一体なんのハルヴァなんだろう」
ニコラが誰にともなく呟くと
「犬だ。垂れ耳の」
と、ユリシーズが答えた。
あっさり秘密を明かされてしまったアベルの心情を察して、ニコラは困ったように微笑むしかなかった。
ユリシーズはニコラに聞こえないくらいの小さな声量で「ここまでにしといてやる」と囁いた。ニコラには聞こえないがアベルには聞こえている。その証拠にアベルが深いため息をついたのが見えた。祝賀会の衣装、そして戴冠式のマントの件で、ニコラにここまで無理をさせているとは聞いていなかった。これはちょっとした仕返しのつもりだった。
音楽の曲調が華やかなものから穏やかなものに変わると、ニコラは会場をじっと見つめて言った。
「ユリシーズ殿下」
「ん?」
「下町のお針子の私が、ユリシーズ殿下のお役に立てて、すごく光栄でした」
彼女は微笑んで言った。だが、その言葉にどこか区切りのような響きを感じて、ユリシーズは胸の奥がざわついた。
「……もう殿下ではないのだが」
「あっ、そうでしたね。失礼しました。ユリシーズ陛下」
「その陛下というのに、まだ慣れないな……」
「今日、即位したばかりです。そのうち慣れますよ」
「だといいが」
一瞬、言葉に詰まった。
(そうか、ニコラはもう今日で仕事を終える。王宮に来ることも、もうないのだ)
自分にとっての陛下はこれまでずっと父を指していた。まだ呼ばれても自分のことだという気になれない。
出会った時、ニコラは自分のことを『殿下』と呼んでいた。そして次は『陛下』。
彼女との距離がどんどん遠ざかるのは気のせいか。
呼び名にこだわることなんてこれまでなかった自分の気持ちに戸惑う。
(本当に、今日で最後になるのか?)
そう自分に問いかけると、すぐに返事が返って来た。
(最後には、させない)
黙ったままのユリシーズを心配したニコラがそっと覗き込むように声をかけた。
「ユリシーズ陛下、どうしました?お疲れですか?」
「────ユーリ、と」
「え?」
「私のことはユーリと呼んでほしい」
「え!?そんな、恐れ多いです……」
「私たちはもう友人だろう?」
一国の王様を呼び捨てに!?!?、と、ニコラの顔には目に見えるほどの動揺がにじんでいた。
だから有無を言わせないように、微笑みかける。
こうすれば彼女が断れないのを知っているからだ。
少し間があって、諦めた彼女が、恥ずかしそうに小さく呟いた。
「……ユーリ」
「そうだ。それでいい」
斯くしてルブゼスタン・ヴォルシス国の王となった男は、満足げに頷いた。
「あれがあいつの仕事だ」
「仕事……?」
「今日は来賓も多いからな」
「はあ……」
「ライアンが前に言っていただろう?アベルは地獄耳だって」
「そう言えば前にそんなこと言ってたような」
「アベルは人の何倍も聴力が優れているんだ。それで会場の怪しい動きがないかを聴いてチェックしている」
ニコラが驚きの表情に変わる。
「ユリシーズ殿下、それって」
「アベルもハルヴァだ」
ユリシーズがそう言った瞬間、アベルがこちらを思いっきり睨んだ。
「ほら、地獄耳だろう」
「ユ、ユリシーズ殿下、それ、言っちゃ駄目なんじゃ……」
アベルがすごい形相で睨み続けてくるが、気にしない。
ユリシーズは構わず続ける。
「アベルがハルヴァと知っているものは少ない」
「ぜ、全然わかりません。ライアンさんみたいに耳があるわけじゃないし……」
「あいつは隠しているが、実は耳があるんだ。髪のように見せているが、横の毛、あれは耳だ」
「え!そうだったんですか!?」
ニコラは好奇心に負けてアベルを見た。アベルは気まずいのか視線を逸らす。
「一体なんのハルヴァなんだろう」
ニコラが誰にともなく呟くと
「犬だ。垂れ耳の」
と、ユリシーズが答えた。
あっさり秘密を明かされてしまったアベルの心情を察して、ニコラは困ったように微笑むしかなかった。
ユリシーズはニコラに聞こえないくらいの小さな声量で「ここまでにしといてやる」と囁いた。ニコラには聞こえないがアベルには聞こえている。その証拠にアベルが深いため息をついたのが見えた。祝賀会の衣装、そして戴冠式のマントの件で、ニコラにここまで無理をさせているとは聞いていなかった。これはちょっとした仕返しのつもりだった。
音楽の曲調が華やかなものから穏やかなものに変わると、ニコラは会場をじっと見つめて言った。
「ユリシーズ殿下」
「ん?」
「下町のお針子の私が、ユリシーズ殿下のお役に立てて、すごく光栄でした」
彼女は微笑んで言った。だが、その言葉にどこか区切りのような響きを感じて、ユリシーズは胸の奥がざわついた。
「……もう殿下ではないのだが」
「あっ、そうでしたね。失礼しました。ユリシーズ陛下」
「その陛下というのに、まだ慣れないな……」
「今日、即位したばかりです。そのうち慣れますよ」
「だといいが」
一瞬、言葉に詰まった。
(そうか、ニコラはもう今日で仕事を終える。王宮に来ることも、もうないのだ)
自分にとっての陛下はこれまでずっと父を指していた。まだ呼ばれても自分のことだという気になれない。
出会った時、ニコラは自分のことを『殿下』と呼んでいた。そして次は『陛下』。
彼女との距離がどんどん遠ざかるのは気のせいか。
呼び名にこだわることなんてこれまでなかった自分の気持ちに戸惑う。
(本当に、今日で最後になるのか?)
そう自分に問いかけると、すぐに返事が返って来た。
(最後には、させない)
黙ったままのユリシーズを心配したニコラがそっと覗き込むように声をかけた。
「ユリシーズ陛下、どうしました?お疲れですか?」
「────ユーリ、と」
「え?」
「私のことはユーリと呼んでほしい」
「え!?そんな、恐れ多いです……」
「私たちはもう友人だろう?」
一国の王様を呼び捨てに!?!?、と、ニコラの顔には目に見えるほどの動揺がにじんでいた。
だから有無を言わせないように、微笑みかける。
こうすれば彼女が断れないのを知っているからだ。
少し間があって、諦めた彼女が、恥ずかしそうに小さく呟いた。
「……ユーリ」
「そうだ。それでいい」
斯くしてルブゼスタン・ヴォルシス国の王となった男は、満足げに頷いた。