教科書に笑う顔

第6話 ページのこちら側

何日も、挿絵の女は私を誘い続けた。ページを開くたびに、視線が絡みつき、声にならない「おいで」が胸に残った。気づけば、私は自分が誰なのかわからなくなっていた。
国語の教科書を開くたびに、窓の反射を見るたびに、私は少しずつ私でなくなっていく。

一時間目の国語。
「八十八ページ、開けて」
先生の声に従ってページをめくる。紙が指に吸いつく。開いた瞬間、視界がチカッとぼやけ、鳥肌がぶわっと立った。すぐに戻る。

また、挿絵のページを見てしまう。息が止まった。
そこに描かれていたのは、完全に“私の顔”だった。顔だけじゃない。髪の分け目も、まつげも、姿まで私だ。
隣の子の教科書をそっとのぞく。そこにも“私”がいる。
自分の頬に触れると、形が違っていた。あごは細く、目のふちがはっきり見えた。
それでも誰も気づかず、授業は当たり前のように進んでいく。息が浅くなり、私はただチャイムだけを待った。

  ◇

チャイムが鳴ると、私は教室を飛び出した。トイレへ走る足が、いつもより軽い。
廊下ですれ違った一年生の指が、私の髪先に触れる前でぴたりと止まった。後ろで誰かが、小さな声で「今日、髪きれい」と言った。
私はトイレへ駆け込み、鏡の前に立つ。

映っていたのは、挿絵の女の人そのままの“美人”の顔。スタイルが良い。スカートのウエストに指がすっと入った——いつもは入らない余り方だ。肌はつややかで、目は大きく、髪もきれいだ。
「……私の憧れの人の姿。……ご褒美、なのかな?」

ふと、思い出した。
公園で、自分の巣にもつれた大きな蜘蛛を見て「私みたいにどんくさい」と思った。
怖かったけど、棒でそっとほどいた。
蜘蛛が逃げる前、一瞬だけ足が私に向いて止まった——「ありがとう」と言ったみたいだった。あの日から、私の世界が少し傾いた。

  ◇

教室に戻る途中、学園一の人気者・隼人が近づいてきた。
「明美、大丈夫? 今日、一緒に帰ろ」
「……うん」
隼人が笑った。
その言い方が“いつもどおり”に聞こえた瞬間、「私たちは付き合ってる」が頭に滑り込んだ。
「……うん」自分の声が鈴みたいに澄んだ。

席に戻ると、私の机の上で国語の本が勝手に開いていた。
おそるおそる近づく。誰も触っていないのに、あの挿絵のページが開いている。
身をかがめてのぞき込んだ瞬間、心臓がひときわ強く打った。

そこにあったのは、私だった。でも、物語はもう旅の女の話ではなかった。
ページには、天に両手を伸ばす“私”の姿。やせた腕、必死の目。こちらへ手を伸ばし、助けを求めている。

私は反射的に、ぱたんと強くその絵を閉じた。
音が胸の奥に響いた。思わず手を離してしまった。
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