クズ御曹司の執着愛
車が静かに止まった。
見上げると、洒落た外観のレストランが目に入る。

「森田さん、今日はお疲れ様でした」
助手席の神山が笑顔で言った。

「あのう……ここは?」
伊織は眉をひそめる。

神山は少し言いにくそうに視線を逸らした。
「沢口常務からの指示でして。内覧後、森田さんをこちらにおろすようにと……」

その言葉を聞き終える前に、運転手がドアを開けた。
「どうぞ」

伊織は仕方なく足を外に出す。
降り立った先は、緑に囲まれた隠れ家的なイタリアンレストラン。
静かな住宅街にひっそり佇むその佇まいは、まるで非日常へと誘う扉のようだった。

車に一礼し、伊織は背筋を伸ばす。
そして意を決して、レストランのドアを押し開けた。


出迎えたスタッフが穏やかに微笑む。
「お客様のお名前をいただけますか?」

「森田です」
伊織が名を告げると、スタッフの表情がすぐに変わった。
「沢口様から伺っております。どうぞこちらへ」

抗う隙もなく、伊織は店の奥へと導かれる。
通り過ぎるテーブルには、キャンドルの明かりとグラスのきらめき。
柔らかな音楽が流れ、低い話し声が遠くに響く。

案内された先は、厚い扉で仕切られた個室だった。
扉が開かれると、そこにはすでに忠相が座っていた。
グラスを手に、まるで最初から伊織が来るのを確信していたかのような余裕の笑みを浮かべて。

案内のスタッフが下がり、厚い扉が閉まる。
静かな個室に残されたのは、伊織と忠相だけだった。

伊織は椅子に腰を下ろすことなく、扉のそばに立ったまま忠相を見据える。
「……どういうつもりですか?」

忠相はグラスを回しながら、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「つもり、とは?」

「神山さんにまで指示して、私をここに呼びつけるなんて」
声を抑えながらも、伊織の視線は鋭かった。

忠相は肩をすくめ、まるで当然のことを告げるように答えた。
「仕事の打ち合わせだ。プロジェクトは始まったばかりだからな」

「打ち合わせなら会社でできます」

「いや、ここでしか話せないこともある」
忠相の声は低く、真顔だった。

けれど伊織は、ほんの一瞬も迷わなかった。
「……その必要はありません」

椅子を引かれることもなく、彼女は扉へと歩みを向ける。
「仕事の話は会社でします。私は、これ以上あなたに付き合うつもりはありません」

忠相の目が細くなる。
「伊織」

扉に手をかけ、振り返りもせずに言い放った。
「……お忘れなく。これは“仕事”なんです」

伊織が扉に手をかけた時、忠相の声が背中に落ちた。
「だから仕事だ。信じられないなら、レセプショニストに聞いてみろ。
ここを予約したのは俺個人じゃない、会社名だ」

思わず足が止まる。
振り返ると、忠相は真顔のままワイングラスを揺らしていた。

「……つまり、これも業務の一環、というわけですね」

「そういうことだ」

逃げ場を塞がれたような感覚に、伊織の胸が重くなる。
囲われている…そんな言葉が頭をよぎった。
けれど、この仕事を投げ出すことはできない。

深く息を吐き、彼女は静かに椅子を引いた。
「……わかりました。では“仕事”として、ご一緒します」

忠相の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「素直でよろしい」

ワインリストを手に取った忠相が、ちらりと伊織に視線を向ける。
「何を飲む?」

伊織は腕を組み、わざとそっぽを向いたまま答えた。
「……常務と同じもので結構です」

ふてくされた声音に、忠相の口元がかすかに緩む。
「そうか。じゃあ、バローロにしよう」
ウェイターに注文を告げる声は落ち着いていて、まるで伊織の態度すら楽しんでいるようだった。

伊織はなおも視線を外したまま、唇を固く結んだ。
(……やっぱり、思った通り。全部、自分のペースで進めるつもりなんだわ)

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