クズ御曹司の執着愛
運ばれてきた前菜の皿から、香ばしいトマトの匂いが立ちのぼる。
こんがりと焼かれたトマトのオーブン焼きに、彩り豊かなシーフードマリネ。
酸味と甘味が絡み合う茄子のアグロドルチェが、食欲をそそった。

伊織はひと口頬張り、思わず笑みをこぼす。
「……おいしー!」
その瞬間、ほんの一瞬だけ学生の頃に戻ったような気分になった。

向かいの忠相の口元が、ふっと緩む。
「……お前の好みが変わっていなくてよかった」

「え?」
フォークを止める伊織に、忠相は当たり前のように続ける。
「好きだったろう? トマトのオーブン焼き、タコの刺身、茄子料理」

「……そうだけど」
伊織は言葉を濁し、グラスに視線を落とした。
(……どうして、そんなことまで覚えているのよ)

次々と料理がテーブルに並んでいった。
熱々のマルゲリータピザ、濃厚なボロネーゼ、そして湯気の立つチーズリゾット。
濃厚な香りがふわりと立ちのぼり、空腹を刺激する。

伊織は目を丸くして、思わず声を上げた。
「ちょっと……こんなに食べられないわ」

忠相はワインを傾けながら、落ち着いた調子で答える。
「すべての皿を平らげる必要はない」

「……」

「伊織は昔からたくさん食べるのが好きだっただろう?牛丼はいつも特盛だったろう」

フォークを持つ手が止まり、伊織の眉間にしわが寄る。
「失礼ね! あの時は若かったのよ。それに……剣道も今よりやっていたし」

忠相は愉快そうに目を細め、肩を揺らした。
「そうか」

忠相がフォークを置き、赤ワインを揺らしながら問いかけた。
「伊織、どうしてお前のこだわりはウィンドウトリートメントなんだ?」

ボロネーゼをひと口味わい、伊織は少し考えるように視線を落とした。
「……布が好きなの」

「布?」

「うん。手触りとか、模様とか、機能性や色とか……飽きないのよね。なんでかはわからないけれど、ずっと好きなの」

忠相は静かにグラスを口に運ぶ。
伊織は続けた。
「窓に取り付ける布って、そこに住む人の好みや生活様式、習慣なんかがすごく反映されると思うの。
“こういう暮らしがしたい”っていうお客様に応えたいし……住む環境が、充実感や安堵感をもたらすだけじゃなくて、元気を与えてくれるような、そんな存在であってほしい。
気…っていうのかな。空間に心地よい流れを生み出して、人の背中を押してくれるような……そういうものにしたいって思う」

自然と声が熱を帯び、伊織は気づけば手を胸の前で握っていた。
彼女の言葉に、忠相は何も言わず、じっと見つめていた。

忠相はグラスを置き、軽く身を乗り出した。
「じゃあ、今度、俺の部屋も見てくれ」

「嫌よ」
伊織は即答した。

忠相の眉がわずかに動く。
「どうして?」

伊織は視線を外さず、きっぱりと言い放った。
「……襲われるの、嫌だもの」

一瞬、静寂が落ちる。

そして忠相の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「まだ……覚えていたか」
その声音には、後悔と執着の両方が入り混じっていた。

「昨日の今日で、忘れられるわけがないじゃない」
伊織はきっぱりと返した。

忠相は赤ワインを揺らしながら、淡々と口にする。
「俺は、忘れてやったんだけどな。
まあ、伊織がそう言うなら……覚えていることにしておこうか」

「……どういうこと?」

忠相の目が冷たく光る。
「滝沢ホールディングスと大塚デザイン事務所の契約は、昨日付けで正式に締結された。
つまり昨日、俺と再会した時点で、俺たちのビジネスは始まっていたんだ」

伊織の心臓が大きく脈打つ。

「なのにお前は、その重要顧客である沢口常務に蹴りを入れた」

「それは……!」
言い返そうとする伊織の声を、忠相が冷たく遮る。

「俺は酔っていて、お前は親切に取引先の常務を部屋まで送っていった。……そこまでは、ホテルの監視カメラで記録に残っている」

「!」
伊織の血の気が引いていく。
「それ以上のことは……お前には証明できない」

忠相の口元が、にんまりと吊り上がった。
「だから俺は“忘れてやる”と言ったんだ」

伊織は言葉を失い、ただ息を呑んだ。
忠相の視線が、彼女を逃がさないように絡みついていた。

忠相はワイングラスを置き、真っ直ぐに伊織を見据えた。
「今日お前は何度も、“これは仕事だ”と主張してきたな。
……その言葉通り、仕事はきっちりやってもらう」

伊織の指先が、テーブルの下で強ばる。

「大塚社長の会社を潰さないように、俺は昨日のことを口外はしない」
忠相の声音は淡々としていたが、その瞳には鋭い光が宿っていた。

「伊織…借りはしっかり返してもらうぞ」

一拍の沈黙。
忠相は口元をゆがめ、低く囁くように言い放った。

「俺のやり方で、な」
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