クズ御曹司の執着愛
悔しさに俯いたまま、伊織はしばらく沈黙していた。
会議室に流れる静けさを破ったのは、椅子をきしませて顔を上げた彼女自身の声だった。

「……わかりました」
忠相の目をまっすぐに見据える。
「この仕事が終わるまで、沢口常務の指示に従います。
ただし、あくまでも“仕事”だということを、お忘れなく。よろしくお願いします」

言い終えた瞬間、忠相の口元にゆっくりと笑みが広がった。
その笑みが挑発なのか満足なのか、伊織には判断できなかった。

忠相が立ち上がり、資料を鞄に収めながら言った。
「伊織、階下に車を待たせてある。営業部長の神山が同行する。今日は三件の物件を内覧してもらう」

伊織は姿勢を正し、短く答えた。
「……わかりました。そのあとは?」

忠相は淡々と肩をすくめる。
「神山に聞いてくれ」

真顔のままの声音に、命令と仕事の線引きが曖昧に交錯しているのを伊織は感じた。
それでも彼女は表情を崩さず、黙って一礼し会議室を後にした。

会議室を出ると、神山がすでに待っていた。
四十代半ば、がっしりとした体格の営業部長は、穏やかな笑みを浮かべて軽く会釈した。

「森田さん、今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」
伊織も会釈を返す。

二人で並んで廊下を歩き、エントランスへ向かう。

「沢口常務、ずいぶん張り切ってますね」
神山が苦笑混じりに言った。

「……そうですね」
伊織は曖昧に答える。

「でも、森田さんが入ってくださって助かりますよ。内装やコーディネートは、私たち営業じゃなかなか踏み込めない領域ですから」

「お役に立てればいいんですが」

正面のガラス扉が開き、外の光が差し込んだ。
すでに黒塗りの車が待機しており、運転席の社員がこちらに気づいて頭を下げる。

「では、参りましょうか」
神山の声に、伊織は小さくうなずいた。

車を降りると、目の前に新築間もないマンションがそびえていた。
まだ入居者のいないモデルルームは、白を基調とした無機質な空間。

案内役の担当者が鍵を開け、伊織と神山を中へと通した。

「こちらがリビングになります」

伊織は靴を脱ぎ、静かに室内を歩いた。
大きな窓から差し込む光が白壁に反射し、やや硬質な印象を与えている。

(光は十分。でも……午後には西日が強すぎるわね)

カーテンボックスの位置や窓枠の素材を確かめ、手帳にスケッチを走らせる。

「森田さん、いかがでしょう?」
神山が横から声をかける。

「リビングは開放的で素敵ですが、このままでは夏場の午後は居心地が悪くなりそうです。
西日をやわらげる遮光レースを提案したいですね。
それに合わせて、夜は暖かみを出せる生地を重ねると、印象ががらりと変わります」

神山が感心したように頷く。
「なるほど……窓まわりで、そこまで印象が変わるんですね」

伊織は軽く微笑んだ。
「住む人が、朝・昼・夜で心地よく過ごせるかどうか。
その積み重ねが“暮らし”をつくるんです」

車で移動した最後の物件は、まだ建設途中のマンションだった。
入口でヘルメットを手渡され、伊織と神山はそれをかぶって足場を上がっていく。
鉄骨の匂い、乾いた木材の香り、作業員の声が響く中、未完成の廊下を抜けると、コンクリート打ちっぱなしの広い空間に出た。

「こちらがリビング予定の部分です」
案内役の監督が声を張る。

伊織は図面を手に取り、骨組みの梁や窓枠の位置を確認した。
コンクリートの床に立ち、視線を大きな開口部に向ける。

「西側に大きな窓……。午後の日差しは強いけど、ここは高層階だから風が通るわね。
白を基調にすると硬くなるので、木目調のブラインドで柔らかさを出して……夜は間接照明を窓際に仕込めば、落ち着いた空間になります」

神山が隣でメモを取りながら、感心したようにうなずく。
「まだ骨組みだけなのに、そこまでイメージできるんですか」

伊織は笑みを浮かべ、メジャーで窓枠のサイズを測りながら答えた。
「空間は“完成後”を想像して整えていくものですから。
こうして現場を歩きながら、光の入り方や風の通り方を確かめるのが大切なんです」

図面に記録を走らせる伊織の姿は、現場の荒々しい空気とは対照的に落ち着いていて、神山の目には頼もしさすら映っていた。

< 9 / 65 >

この作品をシェア

pagetop