クズ御曹司の執着愛
「……卑怯だわ」
伊織の声が震えた。
忠相は眉ひとつ動かさず、グラスを指で弄びながら淡々と返す。
「契約書の日付を確認してみろ。昨日付だ。つまり、もう逃げ場はない」
伊織の胸が強く締めつけられる。
「大塚の会社が潰れるだけじゃない。お前の同僚たちも仕事を失う。生活が立ちゆかなくなる者も出るだろう」
忠相の低い声が、個室の静けさに重く響いた。
「……すべてはお前次第なんだよ、伊織」
冷たい宣告のようなその言葉に、伊織は唇を噛みしめ、何も返せなかった。
沈黙が流れた。
スタッフがそっと皿を片付け、新しいトレイを運んでくる。
デザートは白く透き通るパンナコッタと、濃厚なティラミス。
どちらも、伊織の好物だった。
しかし…フォークを手に取ることはできなかった。
胸の奥にのしかかった重さが、甘味の香りをかき消していく。
伊織はただ、差し出されたカップに口をつけ、苦いコーヒーを静かに啜った。
それが唯一、喉を通るものだった。
ようやく伊織が口を開いた。
「……あなたはやっぱりクズね」
忠相の瞳が細くなる。
「俺のせいにするのはやめろ」
伊織は顔を上げ、何かを吹っ切ったように静かに告げた。
「そうね。私が甘かったのかもしれない。……もういい。決めたわ。この契約が終わるまでよ」
忠相の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「それでこそ伊織だな」
「私の働いているところは、大塚社長も含めて、よい人たちばかりなの。あなたのようなクズではなくてね」
「今のところはオフレコにしておいてやる。俺は寛大な男なんだ」
伊織は鼻で笑った。
「呆れた。……自信過剰の厚顔無恥って、あなたみたいな人のことを言うのね」
そのままフォークを取り、パンナコッタをひと口。
舌に広がる甘さが、張り詰めた空気をほんの少しだけ和らげた。
デザートを食べ終えると、忠相が椅子を引き立ち上がった。
「送っていく」
「いいってば」
伊織が小さく首を振ると、忠相は真顔のまま答えた。
「これも仕事なんでね。お前に何かあったら、真兄に何を言われるかわかったもんじゃない」
伊織はふっと笑みをこぼす。
「……ふーん。忠相にも、そういう相手がいるんだ」
「当たり前だろう。親族といえども、俺もあの会社の役員だ。それは変わらない」
二人がレストランを出ようとした時、マネージャーが足早に近づき、袋を差し出した。
「沢口様、こちらを」
「ああ、ありがとうございます」
忠相が受け取り、そのまま伊織に渡す。
「なあに、これ?」
「お前への土産だ」
袋を覗いた伊織の目が和らぐ。
「あら……アマレッティとチョコレートサラミだわ。嬉しい、ありがとう」
マネージャーが挨拶を終え、下がろうとしたその時。
「……沢口様、こんばんは」
若い女性の声が、背後からかかった。
忠相の表情が一気に固くなる。
「……佐藤さん、こんばんは」
その声音は淡々としていた。
「絵里香、と呼んでください」
彼女は一歩近づき、甘えるような声を重ねた。
「今、父を呼んできますね」
忠相は視線を逸らし、冷たく言い捨てた。
「私は君のお父様とお話しすることは何もありません。失礼します」
そう言うなり、伊織の手を強く取り、足早に出口へ向かう。
扉を抜けた先には、すでに呼んであったハイヤーが待機していた。
忠相は伊織を車へとエスコートし、そのまま自らも乗り込んだ。
車が静かに発進し、夜の街を滑るように進んでいく。
窓の外を見つめていた伊織が、ふと口を開いた。
「……さっきの女性は誰?」
忠相は隣に座ったまま、しばし無言だった。
やがて低く吐き出すように言う。
「佐藤絵里香。取引先の娘だ」
「……取引先の?」
伊織の胸に、妙なざわめきが広がる。
忠相は視線を窓に向けたまま、ワイングラスを持つ仕草のように手を動かした。
「あの一族とは昔から関わりがある。……俺にとっては煩わしい存在だ」
その声音には冷たさが混じっていた。
だが伊織には、それが苛立ちを必死に抑え込んでいるようにも聞こえた。
ハイヤーが静かに停まった。
忠相が先に降り、ドアを開けると、紳士のように手を差し出した。
伊織はその手をあえて取らず、かすかに会釈する。
「では……おやすみなさい。今日はごちそうさまでした」
「部屋まで送っていく」
「え? 大丈夫よ」
忠相は一歩近づき、低い声で告げた。
「大丈夫かどうかは、お前を最後まで見届ける俺が決めることだ」
そう言って伊織の手を取り、エントランスへと導いた。
伊織が自宅マンションの扉を開ける。
「じゃ、これで。送っていただき、ありがとうございました」
形式的な礼を口にした伊織に、背後から忠相が静かに声を重ねた。
「……もう一つ、大事な話があるんだ」
伊織は振り返りもしない。
うんざりした表情を隠そうともせず、怒気を含ませて言い放つ。
「まだあるの?」
短く、鋭い。
忠相は一瞬言葉を探し、それでも踏みとどまらなかった。
「すぐ終わる。少しだけ、上がってもいいか?」
返事はなかった。
伊織は靴を脱ぎ、そのままリビングルームへと歩いていく。
それを了承と受け取った忠相は、わずかに息を整え、伊織の後を追った。
扉が閉まる音が、二人の距離を決定的に区切る。
伊織の声が震えた。
忠相は眉ひとつ動かさず、グラスを指で弄びながら淡々と返す。
「契約書の日付を確認してみろ。昨日付だ。つまり、もう逃げ場はない」
伊織の胸が強く締めつけられる。
「大塚の会社が潰れるだけじゃない。お前の同僚たちも仕事を失う。生活が立ちゆかなくなる者も出るだろう」
忠相の低い声が、個室の静けさに重く響いた。
「……すべてはお前次第なんだよ、伊織」
冷たい宣告のようなその言葉に、伊織は唇を噛みしめ、何も返せなかった。
沈黙が流れた。
スタッフがそっと皿を片付け、新しいトレイを運んでくる。
デザートは白く透き通るパンナコッタと、濃厚なティラミス。
どちらも、伊織の好物だった。
しかし…フォークを手に取ることはできなかった。
胸の奥にのしかかった重さが、甘味の香りをかき消していく。
伊織はただ、差し出されたカップに口をつけ、苦いコーヒーを静かに啜った。
それが唯一、喉を通るものだった。
ようやく伊織が口を開いた。
「……あなたはやっぱりクズね」
忠相の瞳が細くなる。
「俺のせいにするのはやめろ」
伊織は顔を上げ、何かを吹っ切ったように静かに告げた。
「そうね。私が甘かったのかもしれない。……もういい。決めたわ。この契約が終わるまでよ」
忠相の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「それでこそ伊織だな」
「私の働いているところは、大塚社長も含めて、よい人たちばかりなの。あなたのようなクズではなくてね」
「今のところはオフレコにしておいてやる。俺は寛大な男なんだ」
伊織は鼻で笑った。
「呆れた。……自信過剰の厚顔無恥って、あなたみたいな人のことを言うのね」
そのままフォークを取り、パンナコッタをひと口。
舌に広がる甘さが、張り詰めた空気をほんの少しだけ和らげた。
デザートを食べ終えると、忠相が椅子を引き立ち上がった。
「送っていく」
「いいってば」
伊織が小さく首を振ると、忠相は真顔のまま答えた。
「これも仕事なんでね。お前に何かあったら、真兄に何を言われるかわかったもんじゃない」
伊織はふっと笑みをこぼす。
「……ふーん。忠相にも、そういう相手がいるんだ」
「当たり前だろう。親族といえども、俺もあの会社の役員だ。それは変わらない」
二人がレストランを出ようとした時、マネージャーが足早に近づき、袋を差し出した。
「沢口様、こちらを」
「ああ、ありがとうございます」
忠相が受け取り、そのまま伊織に渡す。
「なあに、これ?」
「お前への土産だ」
袋を覗いた伊織の目が和らぐ。
「あら……アマレッティとチョコレートサラミだわ。嬉しい、ありがとう」
マネージャーが挨拶を終え、下がろうとしたその時。
「……沢口様、こんばんは」
若い女性の声が、背後からかかった。
忠相の表情が一気に固くなる。
「……佐藤さん、こんばんは」
その声音は淡々としていた。
「絵里香、と呼んでください」
彼女は一歩近づき、甘えるような声を重ねた。
「今、父を呼んできますね」
忠相は視線を逸らし、冷たく言い捨てた。
「私は君のお父様とお話しすることは何もありません。失礼します」
そう言うなり、伊織の手を強く取り、足早に出口へ向かう。
扉を抜けた先には、すでに呼んであったハイヤーが待機していた。
忠相は伊織を車へとエスコートし、そのまま自らも乗り込んだ。
車が静かに発進し、夜の街を滑るように進んでいく。
窓の外を見つめていた伊織が、ふと口を開いた。
「……さっきの女性は誰?」
忠相は隣に座ったまま、しばし無言だった。
やがて低く吐き出すように言う。
「佐藤絵里香。取引先の娘だ」
「……取引先の?」
伊織の胸に、妙なざわめきが広がる。
忠相は視線を窓に向けたまま、ワイングラスを持つ仕草のように手を動かした。
「あの一族とは昔から関わりがある。……俺にとっては煩わしい存在だ」
その声音には冷たさが混じっていた。
だが伊織には、それが苛立ちを必死に抑え込んでいるようにも聞こえた。
ハイヤーが静かに停まった。
忠相が先に降り、ドアを開けると、紳士のように手を差し出した。
伊織はその手をあえて取らず、かすかに会釈する。
「では……おやすみなさい。今日はごちそうさまでした」
「部屋まで送っていく」
「え? 大丈夫よ」
忠相は一歩近づき、低い声で告げた。
「大丈夫かどうかは、お前を最後まで見届ける俺が決めることだ」
そう言って伊織の手を取り、エントランスへと導いた。
伊織が自宅マンションの扉を開ける。
「じゃ、これで。送っていただき、ありがとうございました」
形式的な礼を口にした伊織に、背後から忠相が静かに声を重ねた。
「……もう一つ、大事な話があるんだ」
伊織は振り返りもしない。
うんざりした表情を隠そうともせず、怒気を含ませて言い放つ。
「まだあるの?」
短く、鋭い。
忠相は一瞬言葉を探し、それでも踏みとどまらなかった。
「すぐ終わる。少しだけ、上がってもいいか?」
返事はなかった。
伊織は靴を脱ぎ、そのままリビングルームへと歩いていく。
それを了承と受け取った忠相は、わずかに息を整え、伊織の後を追った。
扉が閉まる音が、二人の距離を決定的に区切る。