クズ御曹司の執着愛
その日も伊織は滝沢ホールディングス本社で、チームと共に打ち合わせに追われていた。
幸い、忠相に顔を合わせずに済んだ。
(今日はこのまま帰れる……)
そう思った矢先。

「森田さん、常務がお待ちです」
廊下に現れた秘書の言葉に、伊織は小さく肩を落とした。
「……はあ」
深いため息をついて、資料を閉じる。
「わかりました。すぐ伺います」

執務室の扉をノックすると、低い声が返ってきた。
「どうぞ」

「失礼します。森田です」
扉を閉めた瞬間、忠相の視線が射抜いてくる。

「伊織、今夜の予定は?」

「特にありません」

「良かった。……もう帰るところか?」

「そうです」

「そうか。では行くぞ」

「え?」
返事をする間もなく、忠相は立ち上がった。
伊織とともにエレベーターで地下へ。

「どこに?」

「行けばわかる。別の仕事だ」

駐車場に止めてあった車に乗り込み、忠相自らがハンドルを握る。
車内では一言も発せず、伊織も黙ったまま窓の外を見つめていた。

向かった先は、高級ショップが並ぶビルディング。

忠相は何も言わずに車を降り、伊織の手を取った。
そのまま強く握った手を離さぬまま、ひとつのブティックへと足を踏み入れる。

無言と無表情の彼から伝わるものを、伊織は敏感に感じ取っていた。
(……これは、ただの“仕事”じゃない)
そう思いながらも、黙って忠相の後ろを歩いた。

「沢口様、お待ちしておりました」
明るい声とともに、感じのよい女性店員が姿を現した。

忠相は軽くうなずき、低い声で言う。
「後藤さん、今日はよろしく頼む」

そのまま伊織の手を握ったまま、一歩前へ進む。
「こちらの女性が、私の婚約者、森田伊織です」

「……っ!」
伊織は息を呑み、思わず忠相を見上げた。
その無表情の奥に宿る光は、抗いがたい圧力を放っていた。

店員は微笑を深め、丁寧にお辞儀をする。
「森田様。ようこそお越しくださいました」

言葉を返そうとしたが、喉がつまって声にならない。
忠相の掌に込められた力が、彼の決意を無言で伝えていた。

「ま、まってください!」
伊織は慌てて口を開いた。
「私は、」

けれど、その言葉は最後まで続かなかった。
忠相がすぐさま伊織の肩に手を置き、遮るように声を重ねたからだ。

「少し照れているだけです。昔から、そういう女性なんでね」

店員の後藤はくすりと微笑み、うなずいた。
「まあ……奥ゆかしくて素敵ですわ。森田様、どうぞこちらへ」

伊織の頬がカッと熱くなる。
「違います、私は…」
抵抗の言葉は、忠相の手に軽く握られた指先で封じられた。

低く囁かれる。
「黙れ。……今は俺に合わせろ」

胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に、伊織は唇を噛みしめ、声を飲み込んだ。
彼の言葉に従う以外に、この場を乗り切る術はなかった。

忠相が身を寄せ、低く耳元で囁いた。
「……この仕事が終わるまでと、覚悟を決めたんじゃなかったのか? 理由は後で説明する」

伊織はまっすぐに彼を見据え、短く答えた。
「……わかった」

忠相の瞳がわずかに細められ、すぐに柔らかな笑みに変わる。
そして、今度は後藤に聞こえるように、余裕のある声で言った。

「伊織、今夜しか時間がない。時間がかかってもいいから、好きなものと必要なものをすべてここで選んでくれ。サイズがなければ取り寄せて送ってもらえばいい」

顎でソファーの並ぶエリアを示しながら続ける。
「じゃあ俺は、あそこで仕事をしているから。……楽しんでおいで」

後藤が微笑んで声をかける。
「森田様、さあ、行きましょう」

伊織は小さくうなずき、胸の奥に複雑な思いを抱えながら、店の奥へと歩を進めた。
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