クズ御曹司の執着愛
「忠相……私、もう疲れた。お風呂に入りたい」

「わかった。入れてくる。その間に、買ったものを収納しておけ」

「そうするわ」

忠相は寝室の横にあるウォークインクローゼットを指さした。
「お前のスペースは、もう作ってある。……客間のクローゼットには、お前のマンションから運んだものを入れればいい」

「はいはい、わかりました」

「“はい”は一回だけ、って――お前のばあさんが言ってたのを忘れたか?」

「もう……本当にうるさい」

伊織は頬を膨らませる。

忠相は小さく笑い、バスルームへ向かっていった。

その背中を見送りながら、伊織は思わずため息をつく。

湯気の立ちこめる浴室。
伊織は肩まで湯に沈み、深く息を吐いた。

(……昨日と今日だけで、どれだけ振り回されたのかしら)

けれど、頭に浮かぶのは忠相の顔だった。

パーティー会場で、ドレス姿の自分を見て言った「綺麗だ」という言葉。
あれは下心ではなく、確かに素直な響きだった。

自分の仕事のことも、ちゃんと知っていてくれた。
専門誌のインタビューや、コンテストの受賞。
滝沢会長から聞いたとしても、あの口調には「誇りに思っている」色があった。

(囲い込まれている……そんな感じがするのに、不思議と嫌じゃない)

レストランの料理も、ショッピングで選ばれたものも、驚くほど自分の好みだった。
そして、とんかつ屋で聞いた話――
誰にも言わず、店を守ってきた忠相。

会議で見せた、あの自信に満ちた表情。
二十年前の「だらしないクズ男」からは、想像もできない姿だった。

そして……指輪。

刻印された Totus tuus――
「あなたにすべてを捧げる」

二十年前。
居酒屋の騒がしい空気の中、酔いが回った忠相が唐突に聞いてきた。

『どんなプロポーズを夢見てる?』

あのとき、何気なく答えた自分の言葉。

(……偶然よね。今さら、忠相が覚えているなんて)

伊織は湯船から立ち上がり、滴る雫を拭いながら、もう一度深く息をついた。

(……本当に、偶然よね?)

そう、自分に言い聞かせるように呟いて、浴室を後にした。

「お先にいただきました」

髪を拭きながら戻ってきた伊織に、忠相が視線を向ける。

「何か足りないものはなかったか?」

「ううん。今夜は大丈夫」

「そうか……冷蔵庫も、好きに使ってくれ」

穏やかに言ってから、視線を落とす。
「俺は、書斎で少し仕事をしてくる」

「そう」

伊織はうなずきかけて、ふと思い出したように声をかけた。

「あ、忠相。書斎の横の部屋、まだ見せてもらってないけど」

忠相の動きが、ほんの一瞬止まった。

「……あそこには入らないでくれ」

伊織は軽く笑い、冗談めかして首をかしげる。
「何? あの部屋に、愛しい人の思い出でもあるわけ?」

短い沈黙。
その間が、妙に重く感じられる。

忠相は視線を伏せ、短く答えた。
「……まあ、そんなところだ」

「ふーん、そうなんだ」

軽く返したものの、胸の奥には小さな棘のような引っかかりが残った。

忠相はそれ以上何も言わず、背を向けて書斎へと消えていった。

ベッドに横たわると、天井の淡い灯りがぼんやりと視界に映る。
耳の奥に、さきほどの忠相の声が蘇った。

『……俺を、そういう風にしか見られないのか』

(私は……忠相の、どこを見ているんだろう)

二十年という歳月が人を変えるのは、当たり前だ。
変わらない部分もあるだろうけれど、変わった部分だって、きっと多い。

それなのに、自分はずっと「クズ男」のままで、彼を見ようとしていた。

(……もう、クズ男じゃない)
(そこは、ちゃんと認めないと)

反省の念が胸に広がり、同時に、急展開しすぎた日常の疲労が押し寄せる。

伊織は大きく息を吐き、瞼を閉じた。

思考の波がゆっくりと遠ざかり、
やがて彼女は、静かな眠りに落ちていった。



「……伊織、もう寝てしまったか」

仕事を終え、寝室に戻った忠相の視線は、すでに眠りに落ちた伊織に引き寄せられた。
穏やかな寝顔を見つめていると、胸の奥がじわりと熱を帯びていく。

そっと頬に手を添えると――
「……ん……」

眠ったまま、伊織の唇から微かな吐息が漏れた。

忠相の喉が、ひくりと鳴る。
「……やっぱり、きれいだな」

脳裏に、二十年前のサークル合宿の光景がよみがえる。
あの頃から、変わらず惹かれてきた想い。
押し込めてきた感情が、静かに疼いた。

「……いい加減、気づいてくれ」
独り言のように呟く。
「このままじゃ……どうにかなってしまいそうだ」

高ぶる体を鎮めるように、忠相は一度シャワーを浴びに立った。

戻ってくると、反対側からベッドに入り、眠る伊織を起こさぬよう、そっと腕を回す。
拒まれることのない温もりが、胸に満ちる。

「……やっと、つかまえた」

耳元に、かすかな吐息を落とし、ほとんど聞こえない声で囁いた。

「愛してるよ、伊織」

そのまま目を閉じ、彼女を腕に抱いたまま、忠相は静かに眠りへと落ちていった。
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