クズ御曹司の執着愛
窓から差し込む柔らかな朝の光に、伊織はゆっくりと目を開けた。

最初に視界へ飛び込んできたのは、すぐ隣で眠る忠相の顔だった。
整った横顔は、いつも張りついているはずの険しさを失い、眉間の皺も消えている。

(……忠相の寝顔を、久しぶりに見た)

無防備に眠るその姿は、強引で傲慢な「クズ男」とはまるで別人だった。
それどころか、大学時代、サークルでふと見せていた無邪気な面影さえ残っているように思える。

伊織は、思わず息を呑んだ。
(……こんな顔、するんだ)

無意識に伸びかけた指先を、はっとして布団の中へ引き戻す。
胸の奥がざわつき、落ち着かない鼓動をごまかすように視線を逸らした。

(何考えてるの、私……)

そっと布団を押しのけ、音を立てないよう慎重に身を起こす。
足音を忍ばせ、このままベッドを抜け出そうとした――その瞬間。

強い腕が伸びてきて、伊織の体を一気に引き戻した。

「……伊織」

低く囁く忠相の声が、耳元に落ちる。

次の瞬間、背中から包み込まれるように抱き寄せられた。
反射的に身をよじろうとしたが、忠相の胸に頬が触れた途端、ふっと力が抜ける。

拒もうとしていたはずなのに、身体は正直だった。
無意識のうちに体重を預け、伊織はその腕の中に収まってしまう。

強く、けれど乱暴ではない抱擁。
逃げ場を塞ぐようでいて、不思議と落ち着く。

そのとき、かすれた声が再び耳に届いた。

「……愛してるよ、伊織」

寝ぼけたように低く、けれど確かに甘い響きだった。

伊織は一瞬、言葉を失う。
(……え? 今の……)

思わず顔を上げると、忠相はまだ眠っている。
眉間の皺もなく、穏やかな寝顔のまま、規則正しい寝息を立てていた。

(……寝言、よね。からかわれてるみたい)

そう言い聞かせても、胸の奥がざわつく。
理由のわからない動揺が、静かに広がっていった。

「……伊織、起きたのか?」

半分眠った声で、忠相が呟く。

「うん」

「まだ早い。久しぶりの休みだ……もう少し寝るぞ」

「じゃあ、私起きるから離して」

腕を外そうとした、そのとき。

「……ダメだ」

「え?」

「お前に……そばにいてほしい」

そう言ったきり、忠相は再び深い眠りに落ちた。

(……なに、それ。ずるい)

温もりに包まれていると、反発も戸惑いも、少しずつ輪郭を失っていく。
抗う気力が溶けるように薄れ、伊織の瞼も重くなった。
—気づけば、再び静かな眠りに沈んでいた。



次に目を覚ました伊織は、そっと忠相の腕をすり抜けた。
彼は気づく様子もなく、穏やかな寝息を立てている。

(……やっと抜け出せた)

足音を忍ばせて寝室を出ると、朝の光がリビングを満たしていた。
キッチンに立ち、戸棚を探る。

コーヒー豆とドリッパーを見つけた瞬間、胸に小さな安堵が広がった。

湯を注ぐと、香ばしい香りがふわりと立ちのぼる。

(ああ……こうしていると、やっと自分に戻れる)

カップを両手で包み、窓際に腰を下ろす。
高層階からの見慣れない景色。

(でも……ここが、これからの“日常”になるのよね)

一口含むと、苦味と温かさが心に染みる。
すると、今朝の出来事が否応なく浮かんできた。

忠相の寝顔。
強引な腕の温もり。
「そばにいてほしい」という、眠ったままの声。

伊織は小さく息をつき、カップの縁に視線を落とした。

「……いい香りだな」

驚いて振り返ると、寝間着姿の忠相が立っていた。
髪は少し乱れているのに、不思議とだらしなさはない。

「おはよう」

「……おはよう。コーヒー、飲む?」

「もちろん」

ゆっくり近づき、カウンターに腰を下ろす。

「お前の淹れるコーヒーは、昔から妙にうまい」

「褒めても、何も出ないわよ」

そう言いながら、伊織の手つきは自然と丁寧になる。
湯気の向こうで、忠相の視線が静かに注がれているのを感じ、胸がわずかに揺れた。

「今でもミルク入れる?」
「温めてあるけど」

「ああ……好みは変わってない」

「あなたは?」

「ブラックのままだ」

「私も」

同時にカップを持ち上げ、口をつける。

それぞれの味。
それぞれのまま。

一瞬、過去と現在が重なったような錯覚に、伊織の胸がきゅっと締めつけられた。
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