クズ御曹司の執着愛
「ねえ、忠相。お願いがあるの」

「なんだ?」

「休みの日のことなんだけど……せめて、次の休みがいつになるかは教えてもらえないかしら」

忠相は一瞬、言葉を止めた。
カップを静かに置き、伊織を見る。

「ああ、わかった。……何か予定でもあるのか?」

「特にってわけじゃないんだけど、今はこっちに持ってくるものを自宅で整理したいし、道場にも行きたいの」

「……道場?」

「うん。これで久々に、龍ちゃんとも剣道の手合わせをお願いできるわ」

そう言った瞬間、伊織の表情がぱっと明るくなった。
学生時代に戻ったような、屈託のない笑み。

忠相の眉間に、ごく浅く皺が寄る。

「……そうか」

短い返事とは裏腹に、声にはわずかな硬さが混じっていた。

「学生の頃は子ども扱いされてばかりだったけど……今なら、少しは相手になるかもしれない」

くすっと笑うその顔は、あまりにも無防備で。

(……俺の前で、そんな顔をしたことがあったか?)
(龍之介さんの名を出しただけで、どうしてそこまで嬉しそうなんだ)

胸の奥に、冷たいものが静かに広がる。

忠相はその感情を表に出さぬよう、わざと淡々と口を開いた。

「……そうか」

「え?」

伊織が不思議そうに見上げる。
忠相は視線を逸らし、カップを持ち上げた。

「次の休みは秘書に確認して知らせる。それでいいだろう」

そして、間を置かずに続ける。

「龍之介さんは美咲先輩と結婚して、もう既婚者だ」

伊織が目を瞬かせる。

「……いくらお前でも、男と一対一になるのは避けたほうがいいんじゃないか?」

「え?」

「俺は嫌だな」

低い声で、はっきりと言い切る。

「お前が、ほかの男と二人きりになるなんて」

「……もしかして、忠相、嫉妬してるの?」

「ああ、してるさ」

即答だった。
髪をかき上げ、それ以上は説明しない。

そのまま踵を返し、忠相はリビングを出ていった。

残された伊織は、胸の奥に小さなざわめきを覚える。

(……あの忠相が、嫉妬?)



洗面所から戻ってきた忠相が、タオルで髪を拭きながら言った。

「伊織。今日はこれから、お前のマンションに行くぞ。三時に引っ越し屋を手配した」

「え? もう?」

「朝食を食べたらすぐ出る。わかったな」

有無を言わせない口調。

「……わかったわよ」

伊織は小さく息をつき、身支度のため寝室へ向かった。




車に乗り込み、しばらくしてから伊織が口を開く。

「あ、住所はね……」

「知っている」

即座に遮られ、伊織は言葉を失った。

「え……? どうして?」

ハンドルを握る横顔は、微動だにしない。

「必要だからだ」

それだけ。

(……またこれ)
(全部、最初から掌の上ってこと?)

胸がざわつくが、言葉にはできず、伊織は窓の外へ視線を逃がした。


リビングの窓辺に、小さな街並みが広がっていた。

プラハのカラフルな家々。
パリのカフェの軒先。
ローマの石畳。

伊織が少しずつ集めてきた、ミニチュアの建物たち。

朝の光を受けて並ぶ姿は、小さなヨーロッパの街角そのものだった。

(……この子たちとも、しばらく離れるのね)

箱に仕舞いながら、名残惜しそうに指先で屋根をなぞる。

仕事のインスピレーションであり、心を慰めてくれる大切な趣味。

「ここに……戻ってこられる日は、あるのかしら」

小さく呟き、伊織は――
その言葉を胸の奥に沈めた。

すぐ背後から、低い声が返ってきた。

「ない」

「え?」

思わず振り返ると、忠相の視線がまっすぐに伊織を射抜いた。

「お前が、ここに戻ることはないと言っている」

声を荒らげることはない。
だが、その言葉には揺るぎのない決意が含まれていて、伊織の胸に重く沈んだ。

伊織は視線を落とし、か細い声でつぶやく。

「……どうして、そこまでしなきゃいけないの?」

忠相の目に、抑えきれない苛立ちが浮かぶ。
(どうして気づかない……。俺の想いに)
(ずっと、お前だけを見てきたのに)

感情を押し殺すように、冷ややかな声が落ちた。

「……お前の言い方を借りれば、これも仕事の一環だ」

「全部……仕事なの?」

伊織は顔を上げ、苦味を含んだ声で問い返す。

(全部じゃない)
(俺が欲しいのは、お前そのものだ)
(だが、それを言えば拒まれる。だから“仕事”にすり替えるしかない)

忠相は息を荒く吸い込み、鋭い視線を向けた。

「そうだ。このプロジェクトは長い。覚悟を決めたんじゃなかったのか?」

伊織は唇を噛み、言葉を失う。

沈黙が流れた、その隙を逃さず、忠相が低く言った。

「これは、ほんの始まりにすぎない。……本当に嫌なら、やめろ」

胸が大きく波打つ。
だが、反発の言葉は出てこない。

その沈黙を、忠相は逃さなかった。

「……この場合の沈黙は、了承のサインと取るぞ」

冷酷で、どこか勝ち誇った響き。
伊織は強く唇を噛み、視線を逸らすしかなかった。

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