クズ御曹司の執着愛
引っ越し業者がすべての作業を終え、簡単な清掃を済ませると、忠相と伊織はそのまま忠相の車でマンションへ戻った。

地下駐車場からロビーへ。
並んで歩き、二人はコンシェルジュオフィスに入る。

「おかえりなさいませ、沢口様」

スタッフが恭しく頭を下げ、伊織へと視線を移した。

「先日お話しいただいていた、婚約者の森田伊織様でいらっしゃいますね」

「はい」

忠相が短く答える。

「では森田様、こちらのカメラでお顔を撮影させていただきます」

状況を飲み込めないまま、伊織は促されるままに立ち位置へと案内された。
小さく瞬きをしながら、シャッター音を聞く。

一通りの手続きが終わり、カードキーと、共用施設やアメニティへのアクセスに必要な身分証明カードが差し出された。

それを受け取りながら、伊織は思わず苦笑する。

「……もっと、ちゃんとお化粧しておけばよかったかも」

ぽろりとこぼれた本音。

「次からは気を付けるんだな」

忠相は当然のことのように言った。

伊織は一瞬だけ彼を見上げ、
その言葉の裏にある「次」が、すでに前提になっていることを、否応なく思い知らされるのだった。

そのとき、伊織の視線が、手の中のカードに吸い寄せられた。

一瞬で、血の気が引く。

「……え?」

印字されている名前――
沢口 伊織。

思わずカードを見つめたまま固まっていると、
横から身分証明カードを覗き込み、コンシェルジェがにこやかに微笑んだ。

「沢口様から、あらかじめうかがっておりました。
入籍の日が近いため、何度も作り直すより、一度にすべての手続きを済ませたいとのご要望でして」

さらに笑みを深め、恭しく言葉を添える。

「この度は、沢口様、森田様、おめでとうございます。
伊織様、今後ともよろしくお願いいたします」

深々と頭を下げられ、伊織は目を見開いたまま、何も言えなかった。

忠相は当然のように礼を返し、そのまま彼女の背に手を添えてエレベーターへと導く。

静かな密室。
上昇していく数字を睨みつけながら、伊織の胸はざわざわと落ち着かなかった。



部屋に入るなり、伊織はカードを握りしめたまま振り返った。

「……ちょっと、これはどういうことなの?」

靴を脱ぐ間もなく、声が荒ぶる。

「沢口伊織? 入籍が近い?
勝手にそんなことまで決めて……どういうつもりよ!」

忠相は落ち着き払った様子でジャケットを脱ぎ、椅子に掛けながら答える。

「どういうつもりも何も、その通りだ。
俺とお前は婚約中だ。いずれ入籍する」

「聞いてない!」
伊織は鋭く言い返す。
「一度だって、私に確認なんてしてないじゃない!」

忠相の目に、一瞬だけ苛立ちが宿った。

「俺をクズ男としてしか見ていないお前の承諾を待っていたら、
いつまでたっても話が進まないだろう」

伊織は呆れたように笑い、すぐに声を強める。

「承諾?
結婚も、ビジネスの一部ってこと?」

忠相はじっと彼女を見据え、低く問い返した。

「……伊織。お前は、どれならいい?」

一拍置き、さらに低い声になる。

「よく聞け」

忠相は彼女の顎を掴み、視線を逃がさせない。

「結婚もビジネスの一部なのか、という問いには――
イエスでもあり、ノーでもある」

言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。

「考え方によっては、そう言えなくもない。
だが、結婚そのものがビジネスかと聞かれたら……それは断じてノーだ」

その声音には、押しつけよりも、
どこかわかってほしいという必死さが滲んでいた。

伊織はしばらく黙り込み、やがて、ふっと笑みを浮かべる。

「へえ……“断じてノー”ね。
クズ男にしては、ずいぶん真面目な答えじゃない」

挑発に、忠相の口元がわずかに歪む。

「皮肉のつもりか?」

「つもりじゃなくて、皮肉よ」

視線を逸らしながらも、伊織はきっぱりと言い切った。

忠相の目が鋭く光る。

「……これだけ言っても、まだわからないか?」

低く押し殺した声に、抑えきれない苛立ちが混じる。

「俺が、どんな気持ちでお前に向き合っているのか……」

伊織は真っすぐに見返し、怯まずに言い放った。

「もういい!」
「それより……おなかが空いたの。何か食べたいわ」

唐突な言葉に、忠相は一瞬、言葉を失う。

やがて深く息をつき、呆れたように口元を歪めた。

「……お前の鈍感力には、敵わないな」

「なにそれ?」
伊織が怪訝そうに眉をひそめる。

「誰かに羨ましがられたことはないか?」
「伊織みたいに、鈍感でありたいって」

「……すごくバカにされてる気がするんだけど」

忠相は唇の端をわずかに上げ、肩をすくめた。

「さあな」
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