クズ御曹司の執着愛
忠相が立ち上がり、腕時計にちらりと目を落とした。

「今日は、もう一仕事するぞ」

「ええっ?」

伊織は思わず声を上げる。

「今日って、休みじゃなかったの?」

「下に車を待たせてある。行くぞ」

有無を言わせぬ声に、伊織は抗う隙もなくついていった。

車が停まったのは、由緒ある格式高いホテルだった。
そのまま廊下を進み、忠相は立ち止まると、伊織をそのまま美容室へ押し込む。

「お前はこっちだ」

「え、ちょっと……」

「じゃあ、あとでな」

扉が閉まる。

抵抗する暇もなく、プロの手が動き始めた。
着物を着せられ、髪を結い上げられ、丁寧にメイクが施されていく。

やがて、鏡に映る自分の姿を見て、伊織は息をのんだ。

(……まるで、花嫁みたい)

白地に上品な光沢を放つ絹の着物。
束熨斗の文様が流れるように重なり、淡い金と銀、そこに紅が差され、色白の肌をいっそう引き立てている。

帯は深みのある葡萄色。
金糸が織り込まれ、全体をきりりと引き締めていた。

結い上げられた髪には、生花の白い芍薬がひと輪。
瑞々しい大輪が、伊織の清楚な美しさに、凛とした気高さを添える。

――そのとき。

奥の間の扉が開き、忠相が姿を現した。

彼は一瞬、言葉を失い、やがて低くつぶやく。

「……綺麗だ、伊織」

そっと近づき、彼女の左手を取る。
躊躇いなく、薬指に婚約指輪をはめた。



美容室の奥に設えられた撮影スペース。
白壁を背景に照明が組まれ、プロのカメラマンとスタッフが待機している。

白地に束熨斗柄の着物を纏った伊織。
髪に挿された白い芍薬が、凛とした輝きを放っていた。

その隣に立つ忠相は、深い紺のスリーピーススーツ。
ネクタイの色は、伊織の帯の葡萄色とさりげなく呼応している。

「では、お二人、もう少し寄ってください」

カメラマンの声に、忠相は当然のように伊織の腰へ手を添えた。

(……また、勝手に)

そう思いながらも、カメラの前で振り払うことはできない。

シャッター音が響くたび、忠相の表情は揺るぎなく堂々としていた。

その横で伊織は、胸の奥に混乱とざわめきを抱えながらも、
鏡越しに映る自分が「誰よりも忠相の隣にふさわしい花嫁」に見えてしまうことを、否定できなかった。



撮影を終えると、忠相は当然のように伊織を伴い、ホテル最上階へ向かった。

エレベーターの扉が開いた先は、広々としたプレジデンシャルスイート。
大理石の床とシャンデリアが、静かな威厳を放っている。

「今夜は部屋を取った。……お疲れ」

ネクタイを緩めながら、奥の寝室を顎で示す。

「着てきたワンピースは、あそこに用意してある。とりあえず着替えてこい」

ぶっきらぼうなのに、さりげない気遣い。

伊織は胸の奥に、小さなざわめきを覚えながら背を向けた。

数歩進んだところで――

「……伊織」

低い声が背中に落ちる。

「ルームサービスと、レストラン。どっちがいい?」

足を止め、振り返らずに答える。

「……着物で緊張したし、写真も撮って疲れちゃった。ルームサービスがいい」

小さく息をつき、微笑む。

「わかった。何が食べたい?」

「忠相に任せるわ。……お昼、食べてないから」

「好きなだけ頼め」

自分の口元が緩んでいることに気づき、伊織は慌てて話題を変えた。

「お風呂、入ってきていい?」

「……ああ、構わない」

その声は、先ほどまでの強引さをすっかり潜めていた。



バスローブ姿の伊織が戻ってくる。

「はぁ……気持ちよかった。忠相のマンションのお風呂も好きだけど、ここもすごく快適だった」

その無邪気な笑みに、忠相はふっと目を細めた。

「……訂正しろ」

「え?」

ゆったりと歩み寄り、低く言う。

「俺のマンションじゃない。俺たちのマンションだ」

「フレンチにした。もうすぐ来る」

「楽しみ。ありがとう」

やがてルームサービスが届き、料理が並べられていく。
スタッフが下がってから、伊織は席に着いた。

「ここにいればよかったのに」

「嫌よ。こんな無防備な格好、誰にも見られたくない」

「……そうか」

忠相はにやりと笑う。

「じゃあ、俺の前ではいいんだな?」

伊織は頬を赤らめ、視線を逸らした。

「……結婚間近らしいから。私たち」

その言葉に、忠相の目が細くなる。

「ようやく、わかってきたじゃないか」

伊織は聞こえなかったふりをして、ナプキンを手に取った。

忠相は歩み寄り、顎に指をかけて顔を上げさせる。

「食え。愛しい婚約者が、空腹で倒れたら困る」
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