クズ御曹司の執着愛
窓の外は、雲ひとつない青空だった。
澄んだ朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋をやわらかく満たしている。

だが、その穏やかな光景とは裏腹に、忠相と伊織を包む空気は張り詰めていた。

今日、週刊誌が発売される。
社内で発表されたばかりの「沢口忠相と伊織の入籍」は、祝福と安堵をもって受け止められた。
しかしその余韻を打ち消すように、世間には別の形で切り取られた記事が投げ込まれる。

伊織はテーブルに淹れたてのコーヒーを置き、静かに深呼吸をした。
湯気の向こうで、忠相をまっすぐ見つめる。

「……いよいよね」

忠相は新聞を広げたままの手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
その眼差しには覚悟と、わずかな警戒が滲んでいる。

「ああ……騒がしくなるな」

伊織は小さく息を吐き、唇にごく淡い微笑みを浮かべた。

「そうね……しばらくは、落ち着かないでしょうね」

言葉のあとに残った沈黙が、これから始まる日々の重みを静かに告げていた。



街角のキオスクに並ぶ週刊誌の表紙。
そこには、あたかも文学雑誌であるかのような装いの見出しが踊っていた。

「インテリアデザイナーの略奪愛」
「裏切られた令嬢。知られざる婚約破談の真実」
「御曹司を翻弄するふたつの愛」
「大手副社長を射止めた40代女性の執念」

言葉だけを拾えば、耽美な恋愛譚のようにも見える。
だがページをめくれば、そこにあるのは扇情的な虚構と、無責任な憶測の積み重ねだった。

記事はまるで芝居の脚本だ。
「忠相=裏切りの御曹司」
「絵里香=悲劇の令嬢」
「伊織=執念深い悪女」

誰かが勝手に配役を決め、感情を誇張し、筋書きをなぞらせる。
事実よりも物語を、真実よりも刺激を選んだ紙面が、執拗に刷り重ねられていた。

ページを閉じた忠相の手は、静かだが確かな力を宿して震えていた。

「……どれだけ綺麗な言葉を並べても、中身はゴシップに過ぎない」

伊織は深く息を吐き、視線を落とさずに応じる。

「そうね。でも――こうして“物語”に仕立てられると、
信じてしまう人は、想像以上に多いのよ」

その言葉には、諦めでも怒りでもない、現実を知る者の静かな覚悟が滲んでいた。



滝沢ホールディングスのオフィスでは、休憩スペースや給湯室の片隅で、週刊誌を広げて小声で言葉を交わす社員たちの姿があった。

「……これ、本当なのかな」
「いや、常務がそんな軽い人間なわけないだろ」

専務として積み重ねてきた実績と信頼は揺るぎなく、多くの社員は記事に首をかしげるだけだった。
刺激的な見出しよりも、日々の仕事ぶりを知っている者のほうが多い。

一方、大塚デザイン事務所でも反応は同じだった。

「伊織さんが略奪愛? 信じられない」
「ただのデマよ。あの人は、ずっと誠実に仕事をしてきたんだから」

伊織の姿勢を間近で見てきたスタッフほど、記事を一笑に付す。
彼女の積み上げてきた信頼は、紙面の言葉よりも確かな重みを持っていた。

だが、SNSでは話は別だった。
週刊誌の見出しだけが切り取られ、瞬く間に拡散されていく。

《専務の二重交際? まるでドラマ》
《40代デザイナーが御曹司を射止めた!?》

冷やかしと憶測が軽やかに飛び交う一方で、画面の奥では別の声も確かに存在していた。

《社内報で入籍が発表されたばかりなのに?》
《週刊誌の創作だろ》

事実を知ろうとする声と、面白がる声。
二つの潮流が交錯しながら、世間は今日も騒がしさを増していった。



滝沢ホールディングスは、即座に動いた。
「週刊誌の記事は事実無根である」
そう明言した公式声明が発表され、社内外に向けて大きく報じられた。

一方で、伊織と忠相は沈黙を貫いた。
それは無言の抵抗ではない。
滝沢ホールディングスの弁護士が示した、最も冷静で確実な対応だった。

中途半端に言葉を重ねれば、かえって憶測を煽る。
私情を語れば、物語はさらに歪められる。
だからこそ二人は、すべての言葉を胸にしまい込み、毅然と日常を重ねていった。

そして、一週間が過ぎた。

騒ぎは完全には収まらないものの、波は確実に小さくなっていた。
世間は次の話題へと視線を移し始めている。
そんなある日。
滝沢ホールディングス、デザイン部のオフィスで、伊織の携帯がデスクの上で小さく震えた。

着信表示を一目見た瞬間、彼女の表情がわずかに引き締まる。
迷うことなく、伊織は通話ボタンを押した。

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