クズ御曹司の執着愛
龍之介は腕を組んだまま、伊織をまっすぐに見据えた。

「……伊織。これだけじゃない」

伊織は思わず目を瞬かせる。

「え……?」

「お前に、言っておかなくてはいけないことがある」

低く抑えたその声に、場の空気がさらに重く沈んだ。
真樹も忠相も口を挟まず、ただ龍之介の言葉を待っている。

伊織の胸に、再び冷たい予感が走った。

龍之介は一拍置き、声を落として続ける。

「……道場のことだ」

伊織はすぐには意味を掴めず、再び瞬きをした。

「え? おじいちゃんの……?」
戸惑いを滲ませながら問い返す。
「神崎さんに、何かあったの?」

「昨日、俺が不定期で担当している子どものクラスについて、確認の電話を入れた」
龍之介は淡々と説明した。
「そろそろ募集の時期だからな。……だが」

そこで一瞬、言葉を区切る。

「『今期は、子どものクラスは行わない』と、神崎さんに言われた」

「……どうして……?」

伊織のかすれた声に、龍之介は一瞬だけ視線を伏せ、慎重に言葉を選ぶようにして口を開いた。

「神崎さんは、最初は何も言いたがらなかった。だが俺が理由を尋ね続けたら……『伊織には伝えない』という約束で、話してくれた」

胸の奥が、ざわりと波立つ。

「……」

龍之介は低い声のまま、続けた。

「今回の件が出てから、子供を道場に通わせるのをやめた親がいるそうだ。中には『剣道の精神に反する行為だ』と言って、即座に退会させた家もある、と」

その言葉が落ちた瞬間、伊織の体から血の気が一気に引いていくのがわかった。

祖父から受け継がれ、守り続けてきた道場。
剣を学ぶ以前に、人としての在り方を教える場所。
伊織にとって、それは誇りそのものだった。

その聖域にまで――
自分を巡る騒動の影が、静かに、しかし確実に差し込んでいる。

「そんな……!」

伊織の声は震え、喉の奥で絡みつく何かに息を塞がれたようだった。
言葉を続けようとしても、空気だけが漏れる。



その重苦しい沈黙を断ち切ったのは、美和子だった。

彼女は一歩も引かず、真っすぐに伊織を見据える。
その瞳に宿るのは同情ではない。試すような、しかし揺るがぬ厳しさだった。

「伊織さん。これが、忠相君と結婚するということなの」

淡々と、だが逃げ場を与えない声。

「しっかりなさい。
あなたには、その覚悟があったから――再会してすぐに、忠相君と婚約したのでしょう?」

一拍、間を置き、美和子は言葉を重ねる。

「それとも何かしら。
忠相君の肩書や財力が欲しくて、結婚するとでも言われたいの?」

鋭利な言葉が、容赦なく伊織の胸に突き刺さる。

「……違います!」

伊織は震える声で叫んだ。
否定の言葉だけが、必死に、ほとんど反射のように口をついて出た。



「美和子さん、やめてください。伊織は、そんな女じゃない!」

伊織を庇うように一歩前へ出た忠相の姿に、場の空気が張りつめる。
彼の背中は迷いなく、まるで無言の盾のようだった。

美和子は、その様子を一瞬だけ静かに見つめ――
やがて、先ほどまでの鋭さをそっと引き下げるように、口調を変えた。

今度の声は、柔らかく、包み込むようだった。

「……嵐は、いつか必ず去るわ」

言葉は穏やかだが、そこには現実を知り尽くした者の重みがある。

「伊織さんが選んだひとを信じて。
そして、あなた自身も――ともに前を向いて進めばいいの」

伊織は、思わず美和子を見つめた。



真樹と美和子の部屋を辞し、龍之介と美咲に見送られて、忠相と伊織は地下道を抜け、自宅マンションへ戻った。

車もマスコミも入り込めないその通路は、外界から切り離されたように静かで、二人だけの帰路だった。
伊織はようやく肩の力を抜き、ふっと息を吐く。

「……大丈夫か?」

隣を歩く忠相が、低い声で問いかける。

「うん。仕方ないもの」

そう答える声には、隠しきれない微かな悲しみが滲んでいた。

忠相は歩みを緩めることなく、迷いのない眼差しで言う。

「まだ始まったばかりだ。
だが、必ず終わらせる。……少し、時間をくれ」

「わかってる」

伊織は頷き、少し間を置いて続けた。

「ねえ……おなかすいた」

張り詰めていた空気が、ふっとほどける。

忠相の口元が、わずかに緩んだ。

「そう言うと思って、用意してある」

「ほんと?」

「正確には、美咲先輩が気を利かせていろいろ注文してくれた。
コンシェルジュが、もう部屋に運んでいるはずだ」

伊織の表情が、少しだけ柔らぐ。

「美咲先輩……相変わらず優しいのね」

「ああ」

一拍置いて、忠相は静かに言葉を重ねた。

「伊織。お前は一人じゃない。
それだけは、忘れるな」

「……うん」

伊織は小さく頷いた。

二人の言葉は、静かな部屋の空気に溶け込みながら、確かにそこに残っていた。
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