クズ御曹司の執着愛
翌日から、伊織は在宅勤務となった。
朝、忠相を見送るその瞬間まで、彼女はあくまで平然とした顔を崩さなかった。
「行ってらっしゃい」
いつもと変わらない笑顔でそう告げる。
だが玄関の扉が閉まった途端、部屋は音を失い、張りつめた静寂が満ちた。
パソコンを立ち上げ、案件資料を開く。
けれど指先は、思うように動かない。
集中しようとするほど、頭の隅で昨日の出来事がざわめき始める。
真樹の言葉。
美和子の厳しい叱咤。
そして、龍之介が告げた道場の話。
(覚悟していた……はずなのに)
自分の問題が、想像もしなかった場所にまで波及している。
大塚社長の会社の契約。
祖父が残した、誇りそのものの道場。
そして――自分を信じ、そばにいてくれた人たち。
胸の奥が、きりきりと締めつけられる。
息を吸うだけで、重たさが肺に残る。
それでも、涙は落とさなかった。
ここで泣いてしまえば、自分が崩れてしまう気がしたから。
伊織は深く息をつき、無理にでも背筋を伸ばす。
滝沢会長も、忠相も、何も言わない。
だが、言葉にされなくても、わかってしまう。
今回の出来事が、滝沢ホールディングスの事業にまで影を落としていることを。
その現実を、伊織は痛いほど感じ取っていた。
胸がざわめき、心の奥で小さな声がこぼれる。
(……私には、何の力もない)
それでも。
だからこそ、今の自分にできることを、ひとつずつやっていくしかない。
逃げずに、投げ出さずに。
そして――
忠相の言葉に、従おう。
それが、彼の力になると信じて。
伊織は、再び資料に視線を落とし、ゆっくりと指を動かし始めた。
スマホが震えた瞬間、胸の奥が跳ねた。
画面に表示された名前を見て、伊織は小さく息を吸い込む。
「……忠相」
通話ボタンを押すと、低く落ち着いた声が耳に届いた。
「伊織、どうしてる」
たったそれだけの問いかけに、張り詰めていた心がほどけそうになる。
それでも弱さを見せてはいけないと、伊織は意識して声を整えた。
「大丈夫。ちゃんとやってるわ」
一拍の沈黙のあと、忠相が静かに言う。
「……無理をしてる声だな」
その低い声が、直接胸の奥に触れてくる。
「大丈夫よ」
伊織はそう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「多少の無理も、意識していけば……そのうち、自然に流せるようになるから」
必死に均した声だった。
受話器の向こうで、ふっと息を緩める気配がする。
「……俺の婚約者は、たくましいな」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
婚約者――その響きが、確かに伊織を支えていた。
けれど同時に、どうしようもなく切なくて、今にも涙がこぼれそうになる。
声にしてしまえば、きっと堰が切れてしまう。
「伊織。今、俺にどうしてほしい?」
不意に投げかけられた問いに、思わず聞き返す。
「……え?」
受話器の向こうで、忠相が低く笑った。
「何でも話そうって、さっき決めただろ」
「そうねえ……」
伊織は小さく息を吐き、苦笑を滲ませる。
「いきなり聞かれても、困るわ」
「じゃあさ」
少し軽くなった声で、忠相が続けた。
「何か、欲しいものは?」
伊織は一拍置き、わざと明るさを作って答える。
「ある! ティラミス!」
次の瞬間、受話器の向こうで、堪えきれない笑い声が弾けた。
「あっはっはっは! わかった。帰りに買って帰る」
その笑いにつられて、伊織の唇も自然と緩む。
「楽しみにしているわ」
自然と笑みが浮かび、伊織は通話を終えた。
暗い顔や、悲しみに沈んだ姿を見せても、忠相の力にはなれない。
彼の隣に立つためには――
自分自身が、もっと強くならなければならない。
そう静かに言い聞かせ、伊織は背筋を伸ばした。
忠相が伊織との電話を切った直後、会長室への呼び出しが入った。
「失礼します」
ノックをして扉を開けた瞬間、重厚な空気が全身を包む。
会長席には滝沢真樹。
その隣に、現社長である滝沢颯真。
さらに、第一秘書の黒瀬龍之介と、その妻であり社長室付き経営企画部の佐倉美咲。
忠相は一瞬で状況を読み取った。
これから語られるのは、形式的な報告ではない。
深く一礼し、颯真の前へ進み出る。
「社長。
今回、私事により会社へ多大なご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ございません」
張り詰めた空気が、ぴたりと止まった。
だが次の瞬間、颯真の穏やかな声が静かに響く。
「……頭を上げてください。
沢口常務――いや、ただちゃん」
その呼び方に、会長室の空気がわずかに緩んだ。
颯真にとって忠相は、幼い頃から背中を追い続けてきた存在だ。
立場が変わっても、その敬意だけは揺らいでいない。
忠相はゆっくりと顔を上げ、その眼差しに込められた信頼を、真正面から受け止めた。
「……ありがとうございます」
短く答え、改めて頭を下げる。
朝、忠相を見送るその瞬間まで、彼女はあくまで平然とした顔を崩さなかった。
「行ってらっしゃい」
いつもと変わらない笑顔でそう告げる。
だが玄関の扉が閉まった途端、部屋は音を失い、張りつめた静寂が満ちた。
パソコンを立ち上げ、案件資料を開く。
けれど指先は、思うように動かない。
集中しようとするほど、頭の隅で昨日の出来事がざわめき始める。
真樹の言葉。
美和子の厳しい叱咤。
そして、龍之介が告げた道場の話。
(覚悟していた……はずなのに)
自分の問題が、想像もしなかった場所にまで波及している。
大塚社長の会社の契約。
祖父が残した、誇りそのものの道場。
そして――自分を信じ、そばにいてくれた人たち。
胸の奥が、きりきりと締めつけられる。
息を吸うだけで、重たさが肺に残る。
それでも、涙は落とさなかった。
ここで泣いてしまえば、自分が崩れてしまう気がしたから。
伊織は深く息をつき、無理にでも背筋を伸ばす。
滝沢会長も、忠相も、何も言わない。
だが、言葉にされなくても、わかってしまう。
今回の出来事が、滝沢ホールディングスの事業にまで影を落としていることを。
その現実を、伊織は痛いほど感じ取っていた。
胸がざわめき、心の奥で小さな声がこぼれる。
(……私には、何の力もない)
それでも。
だからこそ、今の自分にできることを、ひとつずつやっていくしかない。
逃げずに、投げ出さずに。
そして――
忠相の言葉に、従おう。
それが、彼の力になると信じて。
伊織は、再び資料に視線を落とし、ゆっくりと指を動かし始めた。
スマホが震えた瞬間、胸の奥が跳ねた。
画面に表示された名前を見て、伊織は小さく息を吸い込む。
「……忠相」
通話ボタンを押すと、低く落ち着いた声が耳に届いた。
「伊織、どうしてる」
たったそれだけの問いかけに、張り詰めていた心がほどけそうになる。
それでも弱さを見せてはいけないと、伊織は意識して声を整えた。
「大丈夫。ちゃんとやってるわ」
一拍の沈黙のあと、忠相が静かに言う。
「……無理をしてる声だな」
その低い声が、直接胸の奥に触れてくる。
「大丈夫よ」
伊織はそう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「多少の無理も、意識していけば……そのうち、自然に流せるようになるから」
必死に均した声だった。
受話器の向こうで、ふっと息を緩める気配がする。
「……俺の婚約者は、たくましいな」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
婚約者――その響きが、確かに伊織を支えていた。
けれど同時に、どうしようもなく切なくて、今にも涙がこぼれそうになる。
声にしてしまえば、きっと堰が切れてしまう。
「伊織。今、俺にどうしてほしい?」
不意に投げかけられた問いに、思わず聞き返す。
「……え?」
受話器の向こうで、忠相が低く笑った。
「何でも話そうって、さっき決めただろ」
「そうねえ……」
伊織は小さく息を吐き、苦笑を滲ませる。
「いきなり聞かれても、困るわ」
「じゃあさ」
少し軽くなった声で、忠相が続けた。
「何か、欲しいものは?」
伊織は一拍置き、わざと明るさを作って答える。
「ある! ティラミス!」
次の瞬間、受話器の向こうで、堪えきれない笑い声が弾けた。
「あっはっはっは! わかった。帰りに買って帰る」
その笑いにつられて、伊織の唇も自然と緩む。
「楽しみにしているわ」
自然と笑みが浮かび、伊織は通話を終えた。
暗い顔や、悲しみに沈んだ姿を見せても、忠相の力にはなれない。
彼の隣に立つためには――
自分自身が、もっと強くならなければならない。
そう静かに言い聞かせ、伊織は背筋を伸ばした。
忠相が伊織との電話を切った直後、会長室への呼び出しが入った。
「失礼します」
ノックをして扉を開けた瞬間、重厚な空気が全身を包む。
会長席には滝沢真樹。
その隣に、現社長である滝沢颯真。
さらに、第一秘書の黒瀬龍之介と、その妻であり社長室付き経営企画部の佐倉美咲。
忠相は一瞬で状況を読み取った。
これから語られるのは、形式的な報告ではない。
深く一礼し、颯真の前へ進み出る。
「社長。
今回、私事により会社へ多大なご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ございません」
張り詰めた空気が、ぴたりと止まった。
だが次の瞬間、颯真の穏やかな声が静かに響く。
「……頭を上げてください。
沢口常務――いや、ただちゃん」
その呼び方に、会長室の空気がわずかに緩んだ。
颯真にとって忠相は、幼い頃から背中を追い続けてきた存在だ。
立場が変わっても、その敬意だけは揺らいでいない。
忠相はゆっくりと顔を上げ、その眼差しに込められた信頼を、真正面から受け止めた。
「……ありがとうございます」
短く答え、改めて頭を下げる。