クズ御曹司の執着愛
朝の光が、カーテンの隙間から差し込む。

鏡の前で髪を整える伊織の瞳は赤く、腫れたまぶたが疲労を隠しきれていなかった。

背後からその姿を見つけた忠相が、低く声をかける。

「……伊織」

振り返った彼女の赤い瞳を見た瞬間、忠相の胸が締めつけられる。

「無理をするなよ」

それだけを言い、彼はそれ以上踏み込まなかった。
だが、彼女の目が頭から離れなかった。

 

会社へ向かう車の後部座席で、忠相は窓の外を見つめていた。
拳を握りしめ、奥歯を噛み締める。

伊織には、これ以上不安を背負わせたくない。

だから今朝は多くを語らなかった。
だがすでに、真樹の判断でボディーガードは動いている。
彼女のそばを離れず、陰から守る手筈は整っていた。

「……お前だけが、俺のすべてだ」

それは誰に聞かせるでもない、己への誓いだった。
彼女を守るためなら、どんな犠牲も惜しまない。

 

夜。

リビングのソファに並んで座っていても、伊織の表情は晴れなかった。
笑顔を作ろうとしても、その奥の不安は隠せない。

忠相はグラスを置き、正面から彼女を見つめる。

「……伊織。俺から離れようなんて、考えるなよ」

伊織は息を呑む。

「俺はお前を離さない」

静かだが、断言だった。

そしてふっと、忠相は笑う。

「伊織がそばにいる。
それが、これからの俺の人生設定なんだ」

その言葉に背中を押されるように、伊織は深く息を吸った。

「忠相……話しておきたいことがあるの」

「うん」

穏やかな声が、逃げ場を与えながらも、確かに受け止める。

「……週刊誌の記事のこと」

名を出した瞬間、胸が強く締めつけられた。
伊織は視線を落とし、両手を膝の上で固く握る。

「成島君のことが……書かれていたの。
サークルで一緒だった人……」

声が震え、掠れる。

忠相は静かに頷いた。

「ああ、覚えているよ」

その声は優しかった。
だが胸の奥では、美咲から聞いた真実が怒りとなって燃え上がっていた。
――二度と、触れさせない。

それでも忠相は、怒りを一切表に出さず、ただ彼女を待つ。

伊織は俯いたまま、震える声で続けた。

「……あの記事には、私が“成島君に迫って、関係を強要した”って……
そんなこと、書かれていた」

肩が大きく震える。

「違うの、忠相。そんな事実、絶対にない。
私は……あのときも、今も、そんなこと一度だってしていない」

必死に否定する声の裏に、
信じてもらえなかったらどうしようという恐怖が滲んでいた。

その瞬間、忠相が静かに言った。

「伊織がそんなことをするはずがない。
俺は、知っている」

穏やかな声。
だが、そこに揺らぎは一切なかった。

伊織の涙が、ぽろりと頬を伝う。

忠相はそっと肩に手を置き、低く問いかける。

「話したいことは、それだけか?
それとも……まだある?」

真っ直ぐな眼差しで、しかし柔らかく。

「無理に話さなくていい。
話したくないことは、言わなくてもいい」

伊織の唇が震える。

過去を知っているからこそ、その言葉は深く胸に染みた。

「……でもな」

忠相は一歩近づき、静かに言い切る。

「どんな伊織でも、俺は丸ごと受け取る。
隠さなくていい。守るのは、俺の役目だ」

そう言って、迷いなく彼女を抱きしめる。

胸に響く鼓動と、確かな温もり。
逃げ場のないほど、強く、けれど優しい腕。

伊織はその胸に顔を埋め、嗚咽を堪えきれなかった。

――一人じゃない。
そう、初めて心から信じられた。

忠相の腕の中で、伊織の張り詰めていた心は、ようやく静かにほどけていく。



忠相の腕の中で、伊織は小さく震えていた。
胸の奥に押し込めてきたものが、もう限界までせり上がっている。

「……あのね」

かすれた声で、ようやく言葉を探す。

「私……成島君に……」

途中で息が詰まり、視線が床へ落ちた。

「サークルの頃、無理やり……」

絞り出すような声。
唇は青ざめ、指先が固く絡み合う。

「誰にも言えなかったの。
美咲先輩は知っているけれど……それでも、悲しくて、辛くて……」

涙が、ぽとりと落ちる。

「忘れようとして……忘れていたのに……
今になって、全部……」

声は途切れ、震えに変わった。

「……ごめんなさい」

それは謝罪というより、
自分を責め続けてきた年月の名残だった。

忠相は一瞬、深く息を飲み込む。
そして抱きしめていた腕をほどき、両手で伊織の顔を包んだ。

親指で頬を伝う涙を拭いながら、静かに言う。

「……俺こそ、すまない」

伊織が、驚いたように目を瞬かせる。

「伊織に思い出させてしまった。
それだけで……俺は、胸が痛い」

低い声には、怒りではなく、
彼女の傷に触れてしまったことへの悔恨が滲んでいた。

伊織の瞳に、また涙が満ちる。
けれどそれは、恐怖や絶望ではない。
温もりに触れたことで、こぼれた涙だった。

「……もうひとつ、誰にも話していないことがあるの」

俯いたまま、震える声で続ける。

「成島に心も体も傷つけられたあと……
知らないうちに、命を宿していたの」

息を吸い、吐き出す。

「でも、その命はもう止まっていて……
気づいた時には、病院のベッドの上だった」

涙を拭うこともできず、言葉を絞り出す。

「私は……その小さな鼓動に、気づいてあげられなかった」

胸を押さえ、かすれた声で続ける。

「忘れようとして閉じ込めてきたのに……
今になって、思い出して……
そんな私が、忠相のそばにいていいのか、わからなくなったの」

忠相は、すぐには言葉を出さなかった。
ゆっくりと息を吐き、伊織の顔を優しく持ち上げる。

真っ直ぐに、その瞳を見る。

「……違う」

低く、しかし揺るぎなく。

「お前のせいじゃない。
一つも、間違っていない」

その声には、確信があった。

「伊織の悲しみも、苦しみも……
俺が一緒に引き受ける」

親指で、そっと涙を拭う。

「だから、俺の隣にいろ。
一人で抱えなくていい」

伊織は、その胸に顔を埋める。

長い間、誰にも触れさせなかった痛みが、
ようやく、誰かの温度に包まれていた。


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