クズ御曹司の執着愛
窓の外は厚い雲に覆われ、雨を含んだ空気が部屋に漂っていた。
伊織はゆっくりと瞼を開け、ぼんやりと天井を見つめる。
昨夜、泣き疲れて眠ったせいか、目の奥が重い。
乾いた違和感が、まだ残っていた。
隣に目をやると、忠相の姿はもうない。
(……夢じゃなかった)
全部、話してしまったのだ。
震える声も、止まらない涙も――そして、彼の腕の温もりも。
「伊織の悲しみや苦しみは俺が受け止める。だから、俺の隣にいろ」
思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
それは確かな救いであると同時に、
――自分が彼の重荷になっているのでは、という不安も呼び起こした。
枕元の携帯を手に取ると、未読のメッセージがひとつ光っている。
忠相からだった。
『今日は仕事をせず、ゆっくり休め』
続けて届いたのは、寝そべっているライオンのスタンプ。
その不意打ちのような可愛らしさに、伊織は思わず小さく笑った。
『ありがとう。おはよう。
急ぎの案件があったら知らせてね。今日はお言葉に甘えて休ませてもらいます』
少し迷ってから、お辞儀をするコアラのスタンプを添える。
並んだライオンとコアラを見つめていると、不思議と胸が温かくなった。
軽い朝食を終えると、伊織は気持ちを切り替えるように身支度を整えた。
そして携帯を手に取り、しばらく画面を見つめる。
指先が止まったのは、「神崎」の名前だった。
祖父の道場を受け継いでくれた人。
幼い頃から慣れ親しんだ、あの場所を守り続けてくれている人。
短く、慎重に文字を打ち込む。
『おはようございます。
今日、道場へ伺ってもよろしいでしょうか』
ほどなく、通知音が鳴った。
『もちろん。いつでも来いよ』
飾り気のない言葉。
それだけで、胸に懐かしい安心感が広がる。
木の香り。
汗の匂い。
背筋が自然と伸びる、あの静けさ。
(……行こう。あの場所なら、ちゃんと呼吸ができる)
小さく頷き、バッグに必要なものを詰めた。
マンションの裏口からタクシーに乗り、伊織は道場へ向かった。
正面玄関を避けたのは、記者や不審者の目を避けるためだ。
冷たい風が頬をかすめ、季節が秋から冬へ移りつつあることを告げている。
途中、馴染みの洋菓子屋に立ち寄り、焼き菓子の詰め合わせを買った。
ほんのささやかな手土産。
(……迷惑をかけているのは、神崎さんだけじゃない)
奥様の悦子。
道場に通う子どもたち。
箱を膝に乗せたまま、どう言葉をかければいいのか、そればかりを考えていた。
タクシーを降りると、見慣れた木造の門構えが目に入る。
祖父の代から変わらぬ道場の姿に、胸がきゅっと締めつけられた。
澄んだ冷気の中、木の香りが懐かしく漂う。
「……ただいま」
誰にともなく呟き、門をくぐる。
玄関を開けた瞬間、奥から足音が近づいた。
「おかえり」
道着姿の神崎が、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
続いて、廊下の奥からもう一人。
「まあ、伊織ちゃん」
エプロン姿の悦子が、ぱっと表情を明るくする。
その変わらない笑顔に、伊織の胸がじんと熱くなった。
「突然すみません……お忙しいのに」
そう言って、紙袋を差し出す。
悦子は首を振り、そっと手を添えた。
「謝らないで。来てくれてうれしいわ。
子どもたちは学校だし、私もちょうど手が空いていたところなの」
その柔らかな声に、伊織の肩から少しだけ力が抜けた。
湯呑みから立つ湯気を前に、伊織は両手を膝に置き、深く頭を下げる。
「神崎さん、悦子さん……本当に申し訳ありません。
私のせいで、道場に通う生徒さんが減ってしまったと聞きました」
声が震え、最後はかすれてしまう。
神崎は小さく息を吐き、苦笑した。
「……龍之介のやつ、余計なことを喋らないよう口止めしてたんだがな。
記事になったら、どうにもならん」
肩をすくめる仕草に、伊織の胸がさらに締めつけられる。
「ご家族にまで、ご迷惑を……」
言葉に詰まる伊織に、悦子が静かに首を振った。
「そんなふうに思わないで。
私たちは大丈夫よ。子どもたちだって、あなたのことが大好きなんだから」
伊織は思わず顔を上げた。
「……でも」
小さく首を振る。
「会社にも出勤できなくなってしまって。
関わってくださっている皆さんに、たくさんご迷惑をかけています」
膝の上で指を強く握りしめ、うつむく。
その姿を見つめる悦子の眼差しには、責める色は一切なかった。
ただ、深い思いやりと、包み込むような温度だけが宿っている。
「伊織ちゃん、今日はお休みよね?」
悦子が、いつもの柔らかな笑みを浮かべて尋ねる。
「よかったら……お昼、食べていって」
その自然な誘いに、伊織は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……いいんですか?」
戸惑いを含んだ声に、悦子は迷いなく頷く。
「もちろんよ」
その一言が、胸の奥にふっと灯をともす。
「嬉しい……」
思わず零れた言葉に、伊織ははっとして続けた。
「悦子さん、お料理、すごく上手だから」
悦子は少しだけ頬を染め、照れたように笑う。
「まあ……ありがとう。
じゃあ、腕によりをかけちゃおうかしら」
そのやり取りだけで、伊織の胸に張りついていた緊張が、少しずつほどけていった。
伊織はゆっくりと瞼を開け、ぼんやりと天井を見つめる。
昨夜、泣き疲れて眠ったせいか、目の奥が重い。
乾いた違和感が、まだ残っていた。
隣に目をやると、忠相の姿はもうない。
(……夢じゃなかった)
全部、話してしまったのだ。
震える声も、止まらない涙も――そして、彼の腕の温もりも。
「伊織の悲しみや苦しみは俺が受け止める。だから、俺の隣にいろ」
思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
それは確かな救いであると同時に、
――自分が彼の重荷になっているのでは、という不安も呼び起こした。
枕元の携帯を手に取ると、未読のメッセージがひとつ光っている。
忠相からだった。
『今日は仕事をせず、ゆっくり休め』
続けて届いたのは、寝そべっているライオンのスタンプ。
その不意打ちのような可愛らしさに、伊織は思わず小さく笑った。
『ありがとう。おはよう。
急ぎの案件があったら知らせてね。今日はお言葉に甘えて休ませてもらいます』
少し迷ってから、お辞儀をするコアラのスタンプを添える。
並んだライオンとコアラを見つめていると、不思議と胸が温かくなった。
軽い朝食を終えると、伊織は気持ちを切り替えるように身支度を整えた。
そして携帯を手に取り、しばらく画面を見つめる。
指先が止まったのは、「神崎」の名前だった。
祖父の道場を受け継いでくれた人。
幼い頃から慣れ親しんだ、あの場所を守り続けてくれている人。
短く、慎重に文字を打ち込む。
『おはようございます。
今日、道場へ伺ってもよろしいでしょうか』
ほどなく、通知音が鳴った。
『もちろん。いつでも来いよ』
飾り気のない言葉。
それだけで、胸に懐かしい安心感が広がる。
木の香り。
汗の匂い。
背筋が自然と伸びる、あの静けさ。
(……行こう。あの場所なら、ちゃんと呼吸ができる)
小さく頷き、バッグに必要なものを詰めた。
マンションの裏口からタクシーに乗り、伊織は道場へ向かった。
正面玄関を避けたのは、記者や不審者の目を避けるためだ。
冷たい風が頬をかすめ、季節が秋から冬へ移りつつあることを告げている。
途中、馴染みの洋菓子屋に立ち寄り、焼き菓子の詰め合わせを買った。
ほんのささやかな手土産。
(……迷惑をかけているのは、神崎さんだけじゃない)
奥様の悦子。
道場に通う子どもたち。
箱を膝に乗せたまま、どう言葉をかければいいのか、そればかりを考えていた。
タクシーを降りると、見慣れた木造の門構えが目に入る。
祖父の代から変わらぬ道場の姿に、胸がきゅっと締めつけられた。
澄んだ冷気の中、木の香りが懐かしく漂う。
「……ただいま」
誰にともなく呟き、門をくぐる。
玄関を開けた瞬間、奥から足音が近づいた。
「おかえり」
道着姿の神崎が、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
続いて、廊下の奥からもう一人。
「まあ、伊織ちゃん」
エプロン姿の悦子が、ぱっと表情を明るくする。
その変わらない笑顔に、伊織の胸がじんと熱くなった。
「突然すみません……お忙しいのに」
そう言って、紙袋を差し出す。
悦子は首を振り、そっと手を添えた。
「謝らないで。来てくれてうれしいわ。
子どもたちは学校だし、私もちょうど手が空いていたところなの」
その柔らかな声に、伊織の肩から少しだけ力が抜けた。
湯呑みから立つ湯気を前に、伊織は両手を膝に置き、深く頭を下げる。
「神崎さん、悦子さん……本当に申し訳ありません。
私のせいで、道場に通う生徒さんが減ってしまったと聞きました」
声が震え、最後はかすれてしまう。
神崎は小さく息を吐き、苦笑した。
「……龍之介のやつ、余計なことを喋らないよう口止めしてたんだがな。
記事になったら、どうにもならん」
肩をすくめる仕草に、伊織の胸がさらに締めつけられる。
「ご家族にまで、ご迷惑を……」
言葉に詰まる伊織に、悦子が静かに首を振った。
「そんなふうに思わないで。
私たちは大丈夫よ。子どもたちだって、あなたのことが大好きなんだから」
伊織は思わず顔を上げた。
「……でも」
小さく首を振る。
「会社にも出勤できなくなってしまって。
関わってくださっている皆さんに、たくさんご迷惑をかけています」
膝の上で指を強く握りしめ、うつむく。
その姿を見つめる悦子の眼差しには、責める色は一切なかった。
ただ、深い思いやりと、包み込むような温度だけが宿っている。
「伊織ちゃん、今日はお休みよね?」
悦子が、いつもの柔らかな笑みを浮かべて尋ねる。
「よかったら……お昼、食べていって」
その自然な誘いに、伊織は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……いいんですか?」
戸惑いを含んだ声に、悦子は迷いなく頷く。
「もちろんよ」
その一言が、胸の奥にふっと灯をともす。
「嬉しい……」
思わず零れた言葉に、伊織ははっとして続けた。
「悦子さん、お料理、すごく上手だから」
悦子は少しだけ頬を染め、照れたように笑う。
「まあ……ありがとう。
じゃあ、腕によりをかけちゃおうかしら」
そのやり取りだけで、伊織の胸に張りついていた緊張が、少しずつほどけていった。