クズ御曹司の執着愛
そのやり取りを見ていた神崎が、ふっと口を開いた。

「伊織。その前に……久しぶりに手合わせするぞ。
そのために来たんだろう?」

一瞬、伊織は目を見開き、そして静かに微笑んだ。

「……はい」

奥の部屋へ案内されると、懐かしい畳の香りが広がる。
木の衣桁に掛けられた道着に手を伸ばし、ゆっくりと袖を通した。

布が肌に触れた瞬間、学生時代の記憶が胸によみがえり、自然と背筋が伸びる。
帯をきゅっと結び直し、伊織は静かに部屋を後にした。

道場に足を踏み入れた瞬間、ひやりとした木の床の感触が足裏に伝わる。
張り詰めた静寂。凛とした空気。

正面の壁には、祖父の写真。
鋭い眼差しと揺るがぬ姿勢は、生前と少しも変わらない。

伊織は足を止め、深く一礼した。

竹刀を取り、面をかぶる。
その瞬間、内側で何かが切り替わった。

呼吸を整え、床を踏みしめる。
乾いた音が、道場に澄んで響く。

「はじめ!」

神崎の声と同時に、伊織は迷いを断ち切るように踏み込んだ。

振り下ろす竹刀は、胸に溜め込んだ恐怖や不安を打ち払うように鋭い。

「メェン!」

声が道場にこだまし、竹刀のぶつかる音が乾いた破裂音となって弾けた。
神崎は確かな構えで受け止め、伊織の激しさを受け流す。

(まだだ……)

伊織はさらに踏み込む。
週刊誌の言葉。成島の影。自分を責める声。
そのすべてを、断ち斬るように。

神崎も本気で応じる。

「来い、伊織!」

竹刀が交差するたび、火花が散るような緊張が走る。
汗が額を伝い、面の内に熱がこもる。

それでも、伊織は止まらなかった。

ただ、振り払いたかった。
胸の奥にこびりついた痛みも、恐怖も、無力感も。

「やああっ!」

全身を使った最後の一撃。
竹刀が激しくぶつかり、張り詰めた空気が震えた。

伊織は大きく息を吐き、膝に手をつく。
肩が上下し、面の内で潤んだ瞳を閉じる。

不思議と、胸の奥が少し軽くなっていた。

神崎は竹刀を下ろし、静かに頷く。

「ここまでだ」

二人は正眼を解き、正面に向かって深く礼をした。
互いへの敬意と、この場を守り続けてきた祖父への想いを込めて。

稽古は、静かに終わりを告げた。

面を外した伊織の頬を汗が伝う。
その表情に、もう迷いはなかった。

神崎は一瞬だけ彼女を見つめ、口元に小さな笑みを浮かべる。

「……ようやく、いつもの伊織だな」

伊織は呼吸を整え、静かに頷いた。

 

着替えを終えて居間に戻ると、テーブルにはすでに湯気の立つ料理が並んでいた。
土鍋の蓋を開けると、炊き込みご飯の香りがふわりと立ちのぼる。
醤油と出汁の香ばしさが、胸の奥まで染み込んでくる。

「さあ、召し上がって」

悦子が笑顔で茶碗を差し出した。

炊き込みご飯に、ほうれん草のおひたし。
蕪ときゅうりの漬物。
そして、食後にはお汁粉。

「……おいしい」

思わず零れた言葉に、悦子がふっと笑う。

「大したものじゃないのよ。家にあるもので、さっと作っただけ」

湯気の立つお汁粉を差し出しながら、優しく続けた。

「小豆はね、厄を払うって言われているの。
甘いものを食べて、心も少し休めてね」

伊織は小さく頷き、匙ですくって口に運ぶ。
ほっとする甘さが、冷えていた胸の奥にじんわりと広がった。

その横で、神崎が落ち着いた声で言った。

「伊織。龍之介の言ったことは、気にしなくていい」

真っ直ぐな眼差しに、伊織ははっと顔を上げる。

「離れていく人間は、遅かれ早かれ離れていく。
だが、師匠が築いたこの道場は、こんなことで揺らがない。
俺たちも、大丈夫だ」

その言葉には、長年この場所を守ってきた者の確信があった。

少し声を和らげ、神崎は続ける。

「それよりも……自分の身の安全を、ちゃんと考えろ」

静かな忠告が、伊織の胸にまっすぐ届いた。

「ありがとうございます」
伊織は静かに頭を下げた。その瞳には、もう涙の影はなかった。

神崎は頷き、穏やかに言う。
「いつでも来ていいからな」
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