クズ御曹司の執着愛
神崎と悦子に深々と頭を下げ、伊織は道場を後にした。
裏口に呼んでもらったタクシーに乗り込み、静かにシートへ身を沈める。

窓の外には、曇り空の下でくすんだ街並みが流れていた。
昼下がりの光は弱く、秋から冬へ移ろう季節の冷たさが、ガラス越しにも伝わってくる。

ぼんやりと景色を眺めていた伊織は、ふと小さな違和感を覚えた。

(……おかしい)

心の中で呟き、改めて外を見る。

(さっきの交差点で、曲がるはずだったのに……)

車窓に映るのは、見覚えのない建物や道ばかり。
それに、思っていたよりも時間がかかっている。

胸の奥に、かすかなざわめきが広がった。

伊織は前に身を乗り出し、できるだけ落ち着いた声で話しかける。

「すみません、運転士さん……少し方向が違うようなんですが」

ハンドルを握るドライバーの肩が、わずかに動いた。
ルームミラー越しに視線が向けられるが、その表情はどこか無機質で、すぐに返事はない。

車内に、言葉にできない緊張が、静かに満ちていった。
伊織の指先は無意識に、バッグの中の携帯を探っている。

「……ああ、すみません」

運転手が、ようやく低い声で答えた。

「いつもの道は工事中なんですよ。ですから、少し迂回します」

説明としては、もっともらしい。
けれど――ルームミラーに映る無表情な目と、感情のない口調が、妙に冷たく感じられた。

車は大通りを外れ、次第に狭く、人影のない道へと入り込んでいく。
灰色の空が低く垂れこめ、両脇には古びた倉庫やフェンスが続いていた。

(……どうして、こんな道を?)

胸の奥で、はっきりと警鐘が鳴る。

伊織はバッグの中で携帯を探りながら、必死に平静を装った。

「……あの、あとどれくらいで着きますか?」

声がわずかに震えたことを、自分でもはっきりと感じる。

運転手は、短く答えただけだった。

「すぐですよ」

その一言が、かえって不安を煽った。
だが、その声音には奇妙な無機質さが漂っていた。

伊織の背筋を、冷たいものがすっと這い上がる。
息が詰まりそうな緊張の中、彼女は意を決して声を上げた。

「……止めてください。ここで降ります」

きっぱりとした言葉が、静まり返った車内に落ちる。

運転手はルームミラー越しに、ちらりと伊織を一瞥した。
しかしブレーキを踏む気配はない。
それどころか、アクセルがじわりと踏み込まれ、車体がわずかに加速した。

「……困りますね」

低く、押し殺した声。

その瞬間、伊織の心臓が大きく跳ねる。

(やっぱり……この人は普通じゃない)

背中に冷や汗が滲む。

(こうなったら……飛び降りるしかない!)

そう覚悟を決め、伊織は体を捻ってドアハンドルに手を伸ばした。
だが、指先に伝わったのは、冷たく硬い金属と――

がちり、とした抵抗。

ロックされている。

「……開かない」

喉から漏れた小さな声が、車内の静けさに吸い込まれていった。

「ちょっと、開けてください!」

伊織は声を荒げ、力を込めて何度もドアハンドルを引いた。
さらに足でドアを蹴る。
だが、車体は微動だにしない。

ルームミラー越しに、運転手の顔が映った。
表情は変わらず、感情の欠片もない。
ただ、その視線だけが、異様に冷たく光っている。

「もうすぐ、着きますよ。お客さん」

低く押し出すような声が、車内に響いた。
胸の奥を、嫌な予感がきつく締めつける。

「止めてください! 今すぐ降ろしてください!」

必死に叫ぶ。
しかし返ってきたのは、言葉ではなく――

ふっと漏れた、嘲るような低い息。

それだけだった。

車はなおも走り続け、逃げ場のない静けさが、伊織を包み込んでいった。

そして、唐突にタクシーが停まった。

ブレーキの音が、やけに大きく耳に残る。
伊織の身体が前に揺れ、心臓が強く打った。

「……着きましたよ。お客さん」

低く、感情のない声。

そこは、伊織の知る帰路とはまるで違う場所だった。
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