クズ御曹司の執着愛
建設中のマンションは、まだ骨組みがむき出しだった。
錆びた鉄骨とビニールシートが風にあおられ、不気味な音を立てている。夕暮れの光は差し込んでいるが、人の気配は一切ない。

「……ここは、どこなんですか」

声を絞り出した伊織に返ってきたのは、苛立ちを含んだ声だった。

「知らねえよ。俺は言われた通りに運んだだけだ」

伊織が躊躇して動かないでいると、運転手は声を荒げた。

「さっさと降りろって言ってんだろ! こっちも忙しいんだよ!」

震える足で、伊織は車外に踏み出した。
次の瞬間、背後でドアが乱暴に閉じられる。衝撃音が胸の奥まで響き、タクシーは砂煙を上げて走り去った。

取り残された伊織。
吹き抜ける風が、孤独を煽るように髪を乱す。

心臓が、痛いほど脈打っている。
脳裏に浮かぶのは、忠相の顔だった。

唇を噛みしめた、その時――ポケットの中でスマホが震えた。
画面に表示された名前は「忠相」。

「もしもし、伊織。今どこにいる⁉」

切迫した声が耳に飛び込む。
返事をしようとした、まさにその瞬間だった。

背後から、冷たい布が口元を覆う。

「んっ……!」

抗う間もなく、鼻を突く薬品の匂い。視界が滲み、足元が崩れる。
大きな手が伸び、伊織の手からスマホを奪い取った。

「……沢口忠相。久しぶりだな」

低い声が、スマホ越しに響く。

「おまえ……成島か⁉」

怒りに震える忠相の声。

男は口の端を歪め、わざとらしく答えた。

「森田伊織は、俺と一緒にいる」

「伊織! 答えろ!」

必死の叫びも虚しく、返事はない。
伊織はすでに成島の腕の中で意識を失い、ぐったりと頭を垂れていた。

「伊織は俺といる。逃げられやしない……俺と一緒に終わるんだ」

笑っているのか、泣いているのか判別のつかない狂気じみた声。
次の瞬間、通話は無情にも切れた。

――プツッ。

耳に残るのは、冷たい電子音だけ。

「成島……伊織……!」

忠相は叫んだが、応答はない。
拳を握りしめた手に、血が滲むほどの力がこもる。

電話越しに感じた、伊織の気配の断絶。
恐怖と怒りが、一気に胸をえぐった。

「……必ず見つけ出す。伊織を取り戻す」

 

成島が通話を切った直後、ボディーガードの篠田から連絡が入った。
週刊誌の発売に合わせ、忠相は極秘で数名の警護を雇っていた。

伊織が神崎の家を訪ねたことは、神崎から龍之介を通じて忠相の耳に入っている。
そのため、伊織の乗ったタクシーを尾行していたのが篠田だった。

「すぐに行く。伊織が危ない」

車のドアに手をかけた忠相を、篠田が強い口調で制する。

「常務、待ってください。相手は完全に理性を失っています。焦れば、伊織さんを危険に晒します」

「だが……!」

怒りと焦燥に震える声。それでも忠相は、歯を食いしばって踏みとどまった。
伊織を守るために。

だが不運にも、信号待ちの最中、車道に転がったボールを追って幼い子どもが飛び出し、急停車を余儀なくされる。
ほんの数秒の遅れで、タクシーを見失った。

「申し訳ありません。ですが、位置情報は把握しています」

篠田の報告に、忠相はすでに伊織の携帯の追跡を開始していた。
成島が通話を切った時点で、現場は目前だった。

「常務、ここからは私に任せてください」

冷静な声で篠田が続ける。

「建設中のビルは出入口が限られています。正面は危険です。裏手の資材搬入口から潜入し、二手に分かれましょう。私が先行して制圧します。常務は合図があるまで動かないでください」

忠相は拳を握ったまま、篠田を真っ直ぐに見据えた。

「……俺は、伊織を取り戻す。それだけだ」

「承知しています。そのためにも、冷静さを」

篠田はインカムを装着し、続けた。

「他の警護とも連携します。念のため警察にも匿名通報を。時間はかかりません」

忠相は深く息を吐き、胸に渦巻く焦りを抑え込んだ。
目の前にあるのは、伊織を救うための唯一の道。

「……わかった。だが、合図があれば一瞬で飛び込む」

「はい。必ず、伊織さんを無事に」

短いやり取りの裏で、張りつめた決意が静かに噛み合っていた。
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