クズ御曹司の執着愛
意識の底から引き上げられるように、伊織はゆっくりと目を開いた。
冷たい鉄の匂い。剥き出しのコンクリート。背後で擦れる、縄の感触。
両手は後ろ手に固く縛られ、逃げ場はどこにもない。

視界の先に、成島純一郎がいた。
虚ろな瞳の奥に、濁った光を宿し、何かを呟きながら狭い空間を歩き回っている。

「やっと気づいたか、伊織……」

かすれた声に、歪んだ笑いが混じる。

「俺はずっと追い詰められてきた。誰も理解しない。
だが……お前だけは、俺のそばにいなきゃならない」

成島が近づき、伊織の顎を乱暴に掴んだ。
冷たい爪先が皮膚に食い込み、鋭い痛みが走る。

「嫌っ……!」

顔を背けようとしても、縛られた腕は動かない。
声は震え、喉が締めつけられる。

成島の視線が揺らぐ。
笑いと怒り、その境を行き来する目に、理性の欠片は残っていなかった。

「沢口が選ばれるなんて許せない! なぜだ⁉
同じ御曹司だろう? あいつにできて、俺にできないはずがない!」

声が割れる。

「同じ家に生まれ、同じ血を引いているのに……
どうして、いつも俺だけが影で、弟ばかりが光を浴びる!
努力しても、あがいても、俺には何も残らない。
それなのに――お前まで、沢口を選ぶなんて……!」

拳を強く握り、床を踏み鳴らす。
靴音が、薄暗い空間に不協和音のように響いた。

「……違う」

伊織は、か細い声で言った。
だが、その奥には揺るがない拒絶があった。

「あなたの……やり方は、違う。
私は……そんなもの、望んでいない」

胸に浮かぶのは、ひとつの確かな記憶。
忠相の手の温度。穏やかな眼差し。包み込むような笑顔。

(忠相は……私を、こんなふうに傷つけない)

その思いが、恐怖の中で伊織の背骨を支えた。
震える指先で、背後の縄を探る。
結び目に、わずかな乱れ――小さな隙間。

成島は、その変化を見逃さなかった。
顔を近づけ、耳元で囁く。

「何とでも言え。お前は俺と一緒に死ぬ」

声に滲む、執念と狂気。
伊織の胸に冷たいものが走る。呼吸が詰まり、視界が滲む。

(忠相……助けて……)

心の中で名を呼ぶと、微かな光が胸に灯った。

だが次の瞬間、顎を再び掴まれ、視線を絡め取られる。

「お前は俺のものだ。誰にも渡さない。沢口にも、絶対にな……!」

荒い吐息。
成島の手が離れ、ジャケットの内側から冷たい光が引き抜かれる。

鈍い照明を受け、刃先がぎらりと光った。

「……わかるか、伊織。これが俺の最後の証明だ」

震える手で、刃物が喉元へ突きつけられる。
冷たさが肌に触れ、背筋が凍る。

「沢口は来る。あいつの目の前で見せてやる……!
お前は、俺と一緒に終わるしかないってな!」

怒鳴る声は、どこか泣き声のようでもあった。
理性の光は、完全に失われている。



――その頃。

建設中のビル裏手。
夜風が吹き抜ける資材置き場の陰に、黒い影が身を潜めていた。
篠田と、数名のボディーガード。

インカムから、抑えた声。

「配置についた。……合図を待て」

篠田が手のひらを上げ、静止の合図を出す。
全員が息を潜め、内部の気配を探った。

中から、男の叫び声が漏れる。

「沢口が来るだろう! その目の前で――」

伊織の短い悲鳴が混じる。

忠相の胸が、張り裂けそうになる。
今すぐ駆け込みたい。だが、篠田の鋭い視線が「待て」と告げていた。

(伊織……必ず、助ける)

忠相は歯を食いしばり、拳を握る。
爪が手のひらに食い込み、微かな血の匂いが立った。

「……突入、五秒後だ」

篠田の低い声。

その瞬間、空気が凍りついた。
忠相の鼓動が耳の奥で爆音のように響く。
わずかな秒が、永遠のように引き伸ばされていく。



「……ゼロ!」

篠田の合図と同時に、裏口の扉が激しく蹴破られた。
破裂するような音とともに、黒い影が一斉になだれ込む。

成島が振り向いた、その刹那だった。

「離れろッ!」

一直線に飛び込んだ篠田が叫び、成島の手首を正確に捉えてねじり上げる。

「ぐっ……離せッ!」

刃が宙を切り、鈍い光を散らした。
だが篠田の動きに迷いはない。体勢を崩した成島を一気に壁へ叩きつける。

次の瞬間、他のガードが加勢し、両腕を床へ押さえ込んだ。
凶器が手を離れ、硬質な音を立ててコンクリートに転がる。

「伊織!」

忠相が駆け寄り、椅子に縛られた彼女の姿を見て胸が締めつけられた。
篠田が制圧を続ける傍ら、忠相は震える手で縄を解き、伊織を抱き寄せる。

その温もりに触れた瞬間、伊織の頬を涙が伝った。

「……忠相……」

かすれた声が、確かに彼の胸に届く。

「もう大丈夫だ」

低く、揺るぎない声。
忠相は伊織を強く抱きしめ、その体を包み込んだ。

床に押さえ込まれた成島は、それでも必死に身をよじり、血走った目で二人を睨みつける。

「伊織は俺と一緒に終わるはずだった!
俺が選んだんだ! 俺だけが、お前を救えるんだ!」

叫びとも泣き声ともつかない、空虚な執念。

「……まだ吠えるか」

忠相がゆっくりと歩み寄り、冷え切った眼差しで見下ろす。

「お前の歪んだ執着に、伊織を巻き込むな」

なおも口を開こうとした成島に、鋭い声が落ちた。

「黙れ、成島!」

一喝が空気を震わせる。
成島の瞳が大きく揺れ、やがて力なく伏せられた。
残ったのは荒い呼吸だけだった。

篠田が短く命じる。

「成島を確保。警察に引き渡す。
……傷害未遂と監禁の現行犯だ」

ガードたちが拘束を強め、成島を引き立てる。
呻き声は続いたが、その目にもう抗う力はない。

忠相は一度だけその光景を見やり、すぐに伊織へ視線を戻した。

「伊織……しっかりしろ」

腕の中の彼女は蒼白で、意識が揺らいでいる。

篠田が駆け寄り、冷静に告げた。

「救急搬送の手配は完了しています。すぐに車を回します」

「病院へ……急げ」

忠相の声は、かすかに震えていた。

やがて待機していた車が裏口へ滑り込む。
ドアが開くと、忠相は伊織を抱きかかえたまま乗り込む。

背後で篠田が部下に指示を飛ばす。

「現場を確保。警察に引き渡し、記録を残せ」

エンジン音が低く唸り、車は病院へと走り出した。
流れる夜景の中、忠相は伊織の手を強く、決して離さぬように握りしめていた。
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