クズ御曹司の執着愛
玄関の扉が閉まる音がして、家の中に静寂が戻った。
その場に立ち尽くす伊織の肩に、そっと温かな手が添えられる。
「伊織……」
美咲の声は柔らかく、それでいて揺るぎない強さを帯びていた。
振り向いた伊織の瞳には、まだ涙の名残が滲んでいる。
「……ごめんなさい、美咲先輩。心配かけて」
美咲は小さく首を振り、穏やかに微笑んだ。
「謝ることなんてないわ。あなたが無事でいてくれただけで、十分よ」
その言葉に、伊織の中で張りつめていたものが一気にほどけた。
彼女は堪えきれず、美咲の胸に顔をうずめる。
震える背中を、美咲は両腕でしっかりと抱きしめた。
「怖かったでしょう。でも、もう大丈夫」
その一言が、伊織の胸に静かに染み渡る。
心の奥で固くこわばっていた恐怖が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
美咲は背中を撫でながら、静かに続ける。
「今は、ゆっくり休んで。ここにいる間は、私がそばにいるから」
伊織は涙に濡れた瞳で美咲を見上げ、かすかに息を整えると、
小さく、しかし確かな力でうなずいた。
湯気に包まれた浴室は、まるで外の世界から切り離されたかのように静かだった。
伊織は肩まで湯に沈み、そっと目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、建設中のマンションの光景。
剥き出しの鉄骨。打ちっぱなしのコンクリート。
風にあおられて、不規則に鳴り続けていたビニールシートの音。
椅子に縛られ、喉元に突きつけられた冷たい刃。
あのときの恐怖が、色も音も伴って、鮮明によみがえった。
「……忠相……」
小さく名を呼ぶと、胸の奥にじんわりと熱が広がる。
思い出すのは、突入の直後。
縄を解かれ、何も言わずに抱きしめられたあの瞬間。
「もう大丈夫だ」
低く、確かな声が耳に蘇るたび、涙がこぼれそうになる。
――彼がいなければ、今ここに自分はいない。
湯船の水面に映る自分の顔は、どこかやつれて見えた。
けれど、忠相の腕に包まれていたときのぬくもりを思い出すと、不思議と心は静まっていく。
(忠相……戻ってきたら、ちゃんと伝えよう。私の気持ちを……)
湯気の中でそっと息を吐き、伊織は再び目を閉じた。
身体の疲れが溶けていくのに合わせるように、胸に溜まっていた重さも、ゆるやかにほどけていく。
湯から上がり、バスローブを羽織ってリビングに戻ると、美咲が待っていた。
テーブルの上では、温かいお茶の湯気が静かに揺れている。
「落ち着いた?」
その問いかけに、伊織はうなずいた。
ふと、美咲は意味ありげに微笑んだ。
カップを指先で包んだまま、視線だけを伊織に向ける。
「ねえ、伊織。知ってた?」
「え?」
思わず首を傾げる伊織に、美咲は静かに続けた。
「忠相が大学の頃から、ずっと目で追っていたのは――伊織、あなたよ」
伊織は思わず息をのむ。
「え……? でも……忠相って、女子生徒をとっかえひっかえしてたって、聞いたことがあって……」
言いかけた言葉が、そのまま宙に落ちた。
両手でカップを包み込みながら、伊織は視線を伏せる。
美咲はふっと微笑んだ。
その表情には、どこか懐かしさが滲んでいる。
「最初は私たちも半信半疑だったわ。でもね……あまりにも一途に、あなたを目で追うから」
一拍置き、静かに続ける。
「誰もが気づいたの。
『ああ、この人は本当に、伊織しか見てないんだな』って」
伊織の胸が、どくんと大きく跳ねた。
「……私、全然気づかなかった……」
呟くような声に、美咲は小さくうなずく。
「そうね。あなた以外は、みんな知っていたわ。もちろん成島も」
美咲の声が、わずかに低くなる。
「弟として比べられ続けた人生の中でね、忠相の視線がずっとあなたに向いていることを知ってしまった。
だからこそ、あの人は余計に嫉妬に狂ったのよ。……あの歪んだ執着は、そこから来ている」
伊織は言葉を失い、ただ両手でカップを握りしめた。
脳裏に浮かぶのは、あの真っ直ぐすぎる眼差し。
逃げ場のないほど誠実で、まっすぐで。
――ずっと昔から、自分だけを。
胸に広がるのは、恐怖ではなかった。
静かに、深く染み込んでくる忠相への想い。
知らなかった過去の真実が、波紋のように心を満たしていく。
思い返せば、大学の頃も、今も。
彼の視線は、いつも真っ直ぐすぎて、時に怖いほどだった。
自分は、ただの友人のひとりだと思い込んでいたのに。
彼の心は、最初から一度も揺らいでいなかったのだ。
美咲はそっと伊織の肩に手を置く。
「気づかなくて当然よ」
優しく、けれど確信をもって言った。
「だって忠相は……あなたを困らせたくなかったんだもの」
その一言が、伊織の胸の奥で、静かにほどけていった。
伊織の目から、堰を切ったように涙があふれた。
(私は……なんて鈍かったんだろう。
どれだけ忠相を、ひとりにしてしまっていたんだろう)
胸の奥がきゅっと痛み、同時に温かな後悔が広がる。
伊織はそっと胸に手を当て、ゆっくりと瞼を閉じた。
恐怖も、戸惑いも、不安も――
すべてが、あの人の腕の中でほどけていく感覚があった。
逃げていたわけじゃない。
けれど、見ないふりをしていた。
もう、目を逸らさない。
静かに、けれど確かに、心の奥に刻む。
その瞬間、不思議なほど澄んだ感覚が胸いっぱいに広がった。
長い間、霧に包まれていた世界が、ようやく輪郭を取り戻したように。
伊織の中で、何かが終わり、そして――
新しい一歩が、静かに始まっていた。
その場に立ち尽くす伊織の肩に、そっと温かな手が添えられる。
「伊織……」
美咲の声は柔らかく、それでいて揺るぎない強さを帯びていた。
振り向いた伊織の瞳には、まだ涙の名残が滲んでいる。
「……ごめんなさい、美咲先輩。心配かけて」
美咲は小さく首を振り、穏やかに微笑んだ。
「謝ることなんてないわ。あなたが無事でいてくれただけで、十分よ」
その言葉に、伊織の中で張りつめていたものが一気にほどけた。
彼女は堪えきれず、美咲の胸に顔をうずめる。
震える背中を、美咲は両腕でしっかりと抱きしめた。
「怖かったでしょう。でも、もう大丈夫」
その一言が、伊織の胸に静かに染み渡る。
心の奥で固くこわばっていた恐怖が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
美咲は背中を撫でながら、静かに続ける。
「今は、ゆっくり休んで。ここにいる間は、私がそばにいるから」
伊織は涙に濡れた瞳で美咲を見上げ、かすかに息を整えると、
小さく、しかし確かな力でうなずいた。
湯気に包まれた浴室は、まるで外の世界から切り離されたかのように静かだった。
伊織は肩まで湯に沈み、そっと目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、建設中のマンションの光景。
剥き出しの鉄骨。打ちっぱなしのコンクリート。
風にあおられて、不規則に鳴り続けていたビニールシートの音。
椅子に縛られ、喉元に突きつけられた冷たい刃。
あのときの恐怖が、色も音も伴って、鮮明によみがえった。
「……忠相……」
小さく名を呼ぶと、胸の奥にじんわりと熱が広がる。
思い出すのは、突入の直後。
縄を解かれ、何も言わずに抱きしめられたあの瞬間。
「もう大丈夫だ」
低く、確かな声が耳に蘇るたび、涙がこぼれそうになる。
――彼がいなければ、今ここに自分はいない。
湯船の水面に映る自分の顔は、どこかやつれて見えた。
けれど、忠相の腕に包まれていたときのぬくもりを思い出すと、不思議と心は静まっていく。
(忠相……戻ってきたら、ちゃんと伝えよう。私の気持ちを……)
湯気の中でそっと息を吐き、伊織は再び目を閉じた。
身体の疲れが溶けていくのに合わせるように、胸に溜まっていた重さも、ゆるやかにほどけていく。
湯から上がり、バスローブを羽織ってリビングに戻ると、美咲が待っていた。
テーブルの上では、温かいお茶の湯気が静かに揺れている。
「落ち着いた?」
その問いかけに、伊織はうなずいた。
ふと、美咲は意味ありげに微笑んだ。
カップを指先で包んだまま、視線だけを伊織に向ける。
「ねえ、伊織。知ってた?」
「え?」
思わず首を傾げる伊織に、美咲は静かに続けた。
「忠相が大学の頃から、ずっと目で追っていたのは――伊織、あなたよ」
伊織は思わず息をのむ。
「え……? でも……忠相って、女子生徒をとっかえひっかえしてたって、聞いたことがあって……」
言いかけた言葉が、そのまま宙に落ちた。
両手でカップを包み込みながら、伊織は視線を伏せる。
美咲はふっと微笑んだ。
その表情には、どこか懐かしさが滲んでいる。
「最初は私たちも半信半疑だったわ。でもね……あまりにも一途に、あなたを目で追うから」
一拍置き、静かに続ける。
「誰もが気づいたの。
『ああ、この人は本当に、伊織しか見てないんだな』って」
伊織の胸が、どくんと大きく跳ねた。
「……私、全然気づかなかった……」
呟くような声に、美咲は小さくうなずく。
「そうね。あなた以外は、みんな知っていたわ。もちろん成島も」
美咲の声が、わずかに低くなる。
「弟として比べられ続けた人生の中でね、忠相の視線がずっとあなたに向いていることを知ってしまった。
だからこそ、あの人は余計に嫉妬に狂ったのよ。……あの歪んだ執着は、そこから来ている」
伊織は言葉を失い、ただ両手でカップを握りしめた。
脳裏に浮かぶのは、あの真っ直ぐすぎる眼差し。
逃げ場のないほど誠実で、まっすぐで。
――ずっと昔から、自分だけを。
胸に広がるのは、恐怖ではなかった。
静かに、深く染み込んでくる忠相への想い。
知らなかった過去の真実が、波紋のように心を満たしていく。
思い返せば、大学の頃も、今も。
彼の視線は、いつも真っ直ぐすぎて、時に怖いほどだった。
自分は、ただの友人のひとりだと思い込んでいたのに。
彼の心は、最初から一度も揺らいでいなかったのだ。
美咲はそっと伊織の肩に手を置く。
「気づかなくて当然よ」
優しく、けれど確信をもって言った。
「だって忠相は……あなたを困らせたくなかったんだもの」
その一言が、伊織の胸の奥で、静かにほどけていった。
伊織の目から、堰を切ったように涙があふれた。
(私は……なんて鈍かったんだろう。
どれだけ忠相を、ひとりにしてしまっていたんだろう)
胸の奥がきゅっと痛み、同時に温かな後悔が広がる。
伊織はそっと胸に手を当て、ゆっくりと瞼を閉じた。
恐怖も、戸惑いも、不安も――
すべてが、あの人の腕の中でほどけていく感覚があった。
逃げていたわけじゃない。
けれど、見ないふりをしていた。
もう、目を逸らさない。
静かに、けれど確かに、心の奥に刻む。
その瞬間、不思議なほど澄んだ感覚が胸いっぱいに広がった。
長い間、霧に包まれていた世界が、ようやく輪郭を取り戻したように。
伊織の中で、何かが終わり、そして――
新しい一歩が、静かに始まっていた。