クズ御曹司の執着愛
深夜。
事件処理を終えて邸宅に戻った忠相を出迎えたのは、ソファに座って待っていた伊織だった。
その隣には、美咲の気配が残る茶器が静かに置かれている。

「忠相……おかえりなさい」

立ち上がる伊織を、忠相は疲れを隠すように微笑んで抱き寄せた。

「ただいま。……気分はどうだ?」

「大丈夫よ。美咲先輩が、ずっとそばにいてくれたから」

伊織は彼の胸に顔を寄せ、安堵の息をつく。

二人がソファに並んで座ると、忠相は低い声で語り始めた。

「明日の朝、成島建設の会見が開かれる。社長は辞任、後任は次男の誠二郎だ。
誠実で冷静沈着、頭の切れる男だと評判だ。……会社を立て直す力はある」

「……成島君は?」

「精神医療刑務所に入る」

淡々とした声だったが、その奥に抑えきれない怒りが滲んでいた。

「……お前を、二度と苦しめることはできない」

伊織は胸を撫で下ろし、少し間を置いて尋ねた。

「タクシーの運転手は?」

「借金に追われたギャンブル狂だ。
返済のために純一郎から金を受け取り、お前を運んだ。共犯として捜査を受けている」

伊織は小さく息を吐いた。
安堵はあった。けれど、瞳は自然と伏せられる。

大学のサークル仲間として、笑い合った日々が、なかったわけではない。
妄執にとらわれた果てに、成島が辿り着いた場所を思うと、恐怖だけでは割り切れなかった。

「……どうして、あんなふうになってしまったのかしら」

呟きには、哀れみと悲しみが滲んでいた。

忠相はしばし沈黙し、伊織を見つめて問いかける。

「……同情しているのか?」

伊織ははっと顔を上げ、首を振る。

「同情……じゃないわ。ただ、あそこまで彼を追い詰めたものって、何だったんだろうって思っただけ」

忠相は静かに息を吐き、低い声で続けた。

「わからないな、俺には。
どんな環境で育ったとしても、生き方は選べる。……伊織だって、両親を早くに亡くしただろう」
伊織は黙って頷く。

「だからといって、不幸を理由に人生への責任を放棄し、周囲を責め続ける生き方だって、選べたはずだ」

伊織はゆっくりと言葉を継いだ。

「私は……祖父母に引き取られて、いろんな人の人生を見ることができたんだと思うの。
道場には生徒や家族が出入りしていたし、祖母の三味線の稽古も、いつも人が絶えなかった」

少し懐かしそうに微笑む。

「忙しかったけれど……それが、かえってよかったのかもしれない」

忠相は穏やかに頷き、問いかける。

「剣道や、ほかの習い事は……自分で選んだのか?」

「ええ。自分で『やりたい』ってお願いしたものもあるし、祖父母の勧めもあったわ。
でも、やめるか続けるかは、いつも私が決めなければならなかった」

ふっと目を細める。

「一度だけ、本当に辞めたいと思ったことがあるの。
誰のためにやっているのか、わからなくなって……」

その時のことを、丁寧に思い返す。

「祖父母に言われたのは一つだけ。
『答えは伊織にしかわからない。じっくり考えて、決めなさい』って」

小さく息をつき、微笑んだ。

「今ならわかるわ。あれはきっと、祖父母の教育だった。
“自分で選び、決める”ことを、自然に教えてくれていたんだって」

「だから……私は、幸運だったのよね」

忠相は静かに頷いた。

「確かに、幸運だったのかもしれないな」

一息つき、続ける。

「子どもの頃ならともかく、俺たちはもう大人だ。
“答えは自分の中にある”とか、“すべては自分次第だ”とか……よく言うだろう?」

伊織は黙って耳を傾ける。

「俺は思う。人は皆、選ぶ力を持っている。
誰かに委ねるとしても、その相手を選んだのは自分だ」

少しだけ声が柔らぐ。

「そう考えると……責任を持つって、不自由じゃない。
むしろ、最高の自由だ。
その自由があるからこそ、人生も、毎日も、瞬間さえも愛しくなる」

伊織の胸に、その言葉が静かに沁み込んでいく。

(……そうね。私も、ずっと選んできた。
祖父母の家で、道場で、そして今も……自分の意思で、ここにいる)

時計の針が進む音だけが、部屋を満たす。

やがて、忠相の大きな手が伊織の髪をそっと撫でた。

「……おやすみ、伊織」

伊織は小さく微笑み、彼の胸に顔を埋める。

「おやすみなさい……」

深い安らぎの中で、夜は静かに幕を閉じていった。
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