クズ御曹司の執着愛
「……忠相が知ったら、失望するような過去もあるわ」

一瞬の沈黙。

だが忠相は眉一つ動かさず、低く答えた。

「四十年以上生きてきたんだ。過去があっても自然だろう」

「……そう、かしら」
伊織は苦笑し、膝の上で手を握りしめる。

「過去に何があったとしても、今ここにいるお前を選んでいる」
忠相の声には、揺るぎない確信があった。
「それが、俺の答えだ」

伊織は胸の奥に、痛みと安堵が同時に広がるのを感じた。

不意に、忠相の顔が近づく。
遊びもためらいもない声が落ちる。

「言ってみろ。俺が失望するかどうか……試してみろよ」

挑発にも、慰めにも聞こえる言葉。
伊織の鼓動が速まる。

試されているのは、彼ではない。
自分自身だ。



長い沈黙のあと、伊織は静かに語り始めた。

「……祖母が亡くなって、やがて祖父も逝ったの」
「そのあと、自暴自棄になった時期があった」

忠相は、知っているはずの事実を、あえて遮らない。

「ひとりぼっちの喪失感が怖くて……その場限りの関係を繰り返した」
「安心したかった。でも、何も埋まらなかった。ただ、虚しくなるだけだった」

忠相の瞳に宿るのは、怒りでも軽蔑でもない。
深い理解だった。

「知っている」
短く、しかし確かに。

伊織ははっと顔を上げる。
「……知ってたの?」

「おまえを救ったのが、龍之介さんと神崎さん夫妻だということもな」

胸が強く打たれる。

「……どうして、それを」

「おまえを選んだ時から、すべて調べている」
淡々と、だが迷いなく。
「どこで、誰に支えられて生き延びてきたのか……知っておきたかった」

伊織の胸に、ざわりとした感情が走る。

(愛されている?
それとも、把握されている?)

忠相はそっと彼女の肩に触れ、静かに続けた。

「俺は感謝している。龍之介さんや神崎さん夫妻がいてくれたから、今のおまえがいる」
「だが……これからは、俺が隣にいる」

一息置き、視線を逸らさずに言う。

「迎えに行く前に、ふさわしい男になりたかった。何度も、そう思った」

伊織の胸が小さく揺れる。

「……伊織が龍之介さんに、特別な感情を持っていることも知っている」

声は穏やかだった。
だが、はっきりとした線が引かれている。

「だがな」
忠相は静かに、断言した。
「おまえの未来を共にするのは、俺だ」



伊織は眉をひそめ、真っ直ぐに忠相を見据えた。

「……特別な感情って。忠相は、私が龍ちゃんを“男性として好き”だと思っているの?」

その瞬間、忠相の目が鋭く光る。

「思わないはずがあるか」

抑えた低音だった。
だが、隠しきれない怒りと嫉妬が滲んでいる。

「お前があの人に心を許しているのを、俺はずっと見てきた。恩人だ、兄弟子だ――そんな言葉で片づけるのは簡単だ。だがな……」
一瞬、言葉を切る。
「もし、ほんの少しでも“男”として意識していたらと思うと……俺は、正気でいられなくなる」

思わず、忠相は彼女の手を強く握った。

「伊織。お前は俺のものだ。恩人だろうが誰だろうが、男として見られる存在がいるなんて……許せない」

伊織は息を呑んだが、逃げなかった。
その眼差しを正面から受け止め、静かに言葉を返す。

「龍ちゃんとはね、兄弟子として稽古をつけてもらったり、進路の相談をしたりしていたの」
淡々と、事実だけを置くように続ける。
「祖父が特に目をかけていた人で、皆で食事をすることも多かった。彼にはいつも恋人がいたし、私は師匠の孫。……家族みたいな関係よ。それ以上でも、それ以下でもない」

伊織の声は澄んでいた。
言い訳も、感情の揺らぎも削ぎ落とした響きだった。

「……私ね、本気で人を好きになったことがないの」

言葉を“置く”ように、淡々と続ける。

「幼いころに両親を亡くして、祖父母も逝った。だから、誰かを愛して……また失うかもしれないと思うと、恋愛って、しんどいなって思うようになった。だから恋人関係になった人とも続かなかった」
一瞬、視線が遠くなる。
「成島から受けたあのことも……やっぱり、どこかで影響していると思う」

彼女の瞳は揺らぎを抱えたまま、過去を見つめていた。

「一人でも、それなりに幸せだった。仕事も大好きだし、“これでいいか”って思っていたのかもしれない」
小さく息を吐く。
「だから無意識に、誰とも深く関わらないようにしてきたんだと思う」

ふっと、かすかな笑みを浮かべた。

「“結婚しないの?”なんて笑って聞いてくる人も、ほとんど周りにはいなかったしね」

語り終えた伊織は、静かに微笑んだ。
だがその奥に滲む孤独と諦念を、忠相は見逃さなかった。

しばし沈黙。



忠相は深く息を吐き、低く、まっすぐに問う。

「……じゃあ、俺はどう見えている?」

伊織は思わず瞬きをした。
その問いは重く、逃げ場を与えない。

「忠相が私を守ってくれているのは、本当にありがたいわ」
静かな声だった。
「そばにいるのも、抱かれるのも……嫌いじゃないかな。それが今の正直な気持ち」
少しだけ言葉を選び、続ける。
「ただ、再会してからの展開があまりにも早すぎたの。あなたのこと……ずっと忘れていたんだから」

忠相の表情に、一瞬だけ影が落ちる。
だがすぐに苦笑を浮かべた。

「そっか。忘れていたのか」
軽く肩をすくめる。
「事実だとしても……正直、胸中は穏やかじゃないな」

伊織も小さく笑って、肩をすくめた。

「ごめんなさい。でも、今はそれが本当」
まっすぐに言う。
「好きとか、愛しているかどうかは……まだ、わからない」

忠相は一歩、距離を詰める。
覗き込む瞳に、いつもの余裕はなかった。

「伊織」
低く、吐き出すように。
「“クズ男”だった時期はもう終わったんだろう? それでも……まだ俺を愛せないのか?」

伊織は、ふっと口元に笑みを浮かべた。

「愛そうとして愛せたら……いいのにね」

柔らかい声。
けれど、どこか乾いた響きがあった。



忠相は真剣な眼差しのまま、言葉を継ぐ。

「……以前、“忘れる努力をする”って言っていたな」

「うん」

「なら」
一拍置いて、静かに言う。
「今度は俺に、“愛される努力”をしてくれないか」

伊織は思わず瞬きをし、戸惑いの笑みを浮かべる。

「……なにそれ。愛する努力じゃなくて、愛される努力?」
肩をすくめながらも、視線は逸らさない。
「そんなこと言う人……忠相くらいよ、きっと」

呆れと微笑が半分ずつ混じった声。
けれどその頬の緊張は、知らぬ間に少しだけ解けていた。


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