クズ御曹司の執着愛
忠相に連れていかれたホテルのバー。
重厚なカウンターの椅子に腰を下ろし、目の前のグラスに揺れる琥珀色を見つめていた。
周囲には低く落ち着いたジャズが流れ、氷がカランと鳴る音がやけに大きく響く。

隣に座る忠相の気配が、意識の端を支配している。
息を潜めるようにしてグラスに口をつけると、
ふいに、二十年前のあの夜の記憶がよみがえった。



酔いつぶれた忠相を介抱するため、タクシーで彼のマンションに辿り着いた、あの夜のこと。
玄関先に置いて帰るつもりだった。けれど、彼がふらつくのを見て、つい腕を貸してしまった。

次の瞬間。

『……これが、目的だったんだろう?』

酔っているはずの瞳が、不意に冴えた。
体を押し倒された瞬間、背筋に冷たいものが走る。
肌をなぞる無遠慮な手。唇を乱暴にふさがれる。
いやだ。気持ち悪い。

けれど、その浅はかさが透けて見えた。

『何するの!』
『結局、女は誰でも同じなんだよ』
意地悪く口角を上げる顔。勝手な思い込み。
剣道で叩き込まれた反射が体を動かした。
一瞬の間合いを見極め、足を振り抜く。
忍び寄る恐怖を振り払うように。

忠相が呻き声を上げ、床に崩れ落ちた。

『このクズ男! ふざけないで!』
震える声で叫びながら、彼を見下ろす。

『御曹司? そんなの親や祖父母が築いたものでしょう。
あなた自身は何も持っていないし、授業だってまともに出ていないじゃない。あなたが何をしようが、私には関係ない。
けれど、あなたは惰性で生きているように見えるの。そんな男に、私が興味を持つわけがない!』



ふと横を見ると、忠相の視線がまっすぐにこちらを射抜いていた。

「……伊織。ずいぶん活躍しているんだな」

「……何のこと?」

「コンテストの受賞とか、専門雑誌のインタビューとか」
彼の声は驚くほどやわらかかった。

「知ってたの?」

「ああ。真兄からの情報もあったけど……お前のことは自分でも追っていた」

「真兄?」

「滝沢真樹のことだ。うちの父と真兄の父親は兄弟だ。俺は子供のころから“真兄”って呼んでいる。いろいろ教えてもらったよ」

「……そうだったの」
思わずグラスを持つ指先に力がこもる。

忠相はふっと笑い、手元の酒をあおった。

「忠相、ちょっと飲みすぎじゃない?」

「いいんだよ。今日はお祝いなんだから」
グラスを置いた手が、かすかに伊織の方へ伸びかけて、すぐに止まった。

「伊織、どうして結婚していないんだ?」

「……いきなり、何、その質問?」
思わず眉をひそめる。

「いろんな生き方をしている住人を想定して、これからのプロジェクトは進められる。だから……心情を聞いてみたいと思ったんだ」

しばらく考えてから、伊織はグラスを置き、ゆっくりと答えた。
「そうねえ……両親を早くに亡くしてるし、もう祖父母もいない。だから……また大切な人がいなくなる悲しさを、これ以上味わいたくないのかもしれない」

忠相が静かに目を伏せた。
「……そうか。爺さんも、ばあさんも亡くなったんだな」

「うん。両方とも」

「そうか……」

「……うん」

バーの明かりに照らされたカウンターの上、二人の間にふと静けさが降りた。

忠相はしばらく黙っていたが、ふとグラスを揺らしながら口を開いた。
「……もし、一日でも伊織より長生きすると約束できる男が現れたら?」

「え?」
思わず聞き返すと、彼は真顔のままこちらを見ていた。

伊織は吹き出すように笑ってしまった。
「あはは、何それ? 人がいつ死ぬかなんて、誰にも決められないでしょ」

「……」

「相変わらず、変なこと言うね、忠相は」

互いのグラスがほとんど同時にテーブルに置かれた。

忠相が、突然バーカウンターに突っ伏した。

「ちょっと……忠相? 大丈夫?」

「……ああ」
かすれた声が返ってくる。

「すみません、お水をください」
伊織は慌ててバーテンダーに声をかけた。

差し出されたグラスを手に、忠相の前に置く。
「ほら、飲んで」

忠相はゆっくりと顔を上げ、水をひと口含んだ。
「……すまない。伊織、部屋まで送ってくれ」

「え? ……もう、仕方ないわね」
小さくため息をつき、伊織は彼の腕を支える。

二人でバーを後にした。
夜の廊下に響く足音が、やけに大きく感じられた。
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