令和恋日和。 ~触れられない距離に恋をして~

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 その夜、イベントを終えて帰路につく芙美は、電車の中でスマホを取り出した。黒い画面に映る自分の顔。仕事帰りの疲れた表情がそこにあったが、頬にはほんのわずかに赤みが差しているように見えた。彼女は画面をじっと見つめ、ふと心の中でつぶやいた。
「……私も、まだ恋とか、していいのかな」
 その言葉は、誰にも聞こえない独り言だった。夜の電車の窓に映る街の灯りに、彼女の声は溶けていく。恋という言葉を口にした瞬間、芙美の胸には、期待と不安が混じり合った複雑な感情が広がった。三十二歳という年齢は、恋愛に対してどこか慎重にさせ、でも同時に、日常の小さな出会いに心を揺さぶられる自分を否定できなかった。
 一方、同じ夜、ホテルの部屋の窓から東京の夜景を眺めていた侑もまた、心の奥で静かに言葉を紡いでいた。
「偶然か……それとも、必然か」
 彼の声は低く、まるで自分自身に問いかけるようだった。あの日のカフェでの出会い、そして今日の再会。ほんの一瞬の視線の交錯が、なぜか彼の心に小さな火を灯していた。普段は冷静で、仕事に没頭するタイプの侑だったが、芙美の少しぎこちない笑顔や、名刺を差し出すときの緊張した仕草が、なぜか頭から離れなかった。
 ふたりの視線が初めて交わったあの瞬間から、止まっていた時間が、ゆっくりと、だが確かに動き始めていた。
 
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