愚図な妖狐は嗜虐癖な陰陽師に甘く抱かれる ~巡り捲りし戀華の暦~

第6話 むくれ面の狗

 その晩、龍志は一人、廃社の境内へと向かった。

 華やかな桃の花の香りが漂う弥生の夜半。空気はまだ真冬のように凍てつき、吐く息は白く舞う。
 春の訪れを予感させる風が、そっと彼の頬を撫でた。

 ──この場所に来てから、早いもので約二年が過ぎた。
 寒空を見上げ、龍志はふとそんなことを思った。

 この二年、笹垣をこしらえたり、境内裏手のボロ屋を人が住めるように修繕したりするので精一杯だった。
 社の管理など、ほとんど手つかずのまま。

 そもそも、ここにはもう神は存在しない。
 それは龍志もよく分かっていた。

 それでも、いつか少しずつでも修繕しなければ……。
 そんなことを考えながら、今にも崩れそうな社を横目に歩みを進め、正面の鳥居に辿り着いた。

 朱塗りのほとんど剥がれた鳥居の向こうには、丸々と太った金色の満月が浮かんでいた。
 こんな明るい夜空の社も……普段はさほど気にも留めなかった。否、二年もこの地に住み着いているのだから、細かなことに深く心を砕くこともなかったのだろう。
 だが、月明かりの下で神の不在が際立つ社の荒んだ輪郭は、どこか悲愴な美しさを帯びて龍志の胸に迫った。

 一つ息を吐き、龍志はたった一匹で佇む(いぬ)の前まで歩み寄る。
 月明かりが静かな境内を照らし、ほのかに漂う桃の花の香りが夜の空気に溶けていた。廃社の古びた石畳に、龍志の足音が小さく響く。どこか寂しげなその音が、彼の心に微かな波を立てる。

「悪い。さっきは言い方がきつすぎた。なあ、蘢、ふてくされるなよ?」

 龍志は苦笑いを浮かべ、苔の張り付いた(いぬ)の額を甲でコツコツと軽く叩いた。
 冷たい石の感触が指先に伝わり、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。すると、瞬く間に台座に座っていた(いぬ)は煙のようにふわりと消え、蘢がその姿を現した。

 なんとも子どもじみた、むくれた表情が月光に浮かぶ。
 ふわふわの髪が夜風に揺れ、拗ねた顔が妙に愛らしくて、龍志は思わず口元を緩めた。

 蘢は龍志に視線を向けることもなく、ツンとそっぽを向く。
 雄狗の癖に随分と華奢なせいもあって、まるで子どもが駄々をこねるようなその仕草に、胸の奥からふつふつと嗜虐心が(くすぐ)られるが、これ以上臍を曲げられても困る。
 やれやれと龍志は首を振った。
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