愚図な妖狐は嗜虐癖な陰陽師に甘く抱かれる ~巡り捲りし戀華の暦~
「逃げるな」

 途端に耳の真上から落ちてきた声は、どこか厳かな示唆だった。
 命じることに慣れているのだろう。そんな口調で言われてしまえば動けない。季音は大人しく彼の腕に捕らわれたままでいた。それから二拍、三拍と置いた後だった――。

「なぁ、季音。こんな言葉を知っているか?」

 季音。と、思えば、彼に名前で呼ばれることは少ないだろう。
 たったそれだけでも鼓動はさらに高鳴り、季音は恐る恐る彼を見上げた。

「夏は夜。月のころはさらなり。闇はなほ、ほたるの多く飛びちがいたる」

 龍志はぽつりぽつりと囁くように告げる。
 そして彼が言葉を止めると、季音の唇は自然と唇が開き、緩やかに言葉を紡ぎ始めた。

「……また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」

 ――清少納言、枕草子。夏の部位。
 だが、何故それを言えたのかも、理解できたのかも、知っているのかも分からない。季音はたちまち大きく目を(みは)った。

「平仮名が読める。漢字は読めずともそれを分かっている。その上、枕草子が分かっている……妖の癖に妖気も持たず、ただの獣にしては不自然だろ……」

 ――どういうことかさすがに分かるだろ? と、()かれて季音の頭は真っ白に染まった。
 何も覚えていない。だが、そこまで言われてしまえば、季音の中で一つの答えが出た。いや、それしかないだろうと。

「私は……人だったのですか?」

 恐る恐る季音は問う。すると、彼は頷き形の良い薄い唇を開いた。

「もう、さすがに全てを告げるべきだろうとは思った。お前は――藤香(とうか)御前(ごぜん)。俺の前世、藍生詠龍の妻だ。お前が輪廻したと知って、俺はお前に会いに来たからここにいる」

 黄緑の蛍火に灯された彼の(おもて)は真面目そのものだった。
 その瞳はあまりに真っ直ぐで、とても冗談とは思えない。

「俺は、お前に巡り会うために輪廻した。今、妖だろうが構わない。もう一度、俺の妻になってくれ」

 さすがに情報量が多すぎて、頭が追いつきやしない。
 妻になれと――それは時差式に頭で理解できて、素直に嬉しいと思えた。

 率直に、やはり運命だったと思えてしまった。だがその反面、得体の知れぬ自分が何一つ覚えてもいない不安に胸が軋み、季音の瞳にはたちまち水膜が張る。

「そんなに嫌か……お前は何も覚えていないからな」
< 54 / 145 >

この作品をシェア

pagetop