愚図な妖狐は嗜虐癖な陰陽師に甘く抱かれる ~巡り捲りし戀華の暦~
 危うい場所では、祝詞(のりと)や知らずうちに覚えた(きょう)を唱えながら歩けば、誰も突っかかってくることはなかった。

 そうして、無事に山を降りたころには日が暮れ始めていた。金もろくにないのだから、当然野宿となる。龍志は橋の下に座り、そこを一晩の宿とした。

 薪に火を灯し、通りがかりの茶屋で包んでもらった大福と団子を夕飯にしようとしていると、川からちゃぷちゃぷと音が聞こえた。そちらを見ると、水面から顔を出した(かわうそ)の妖が龍志をじっと見つめていた。

「食うか?」

 交友的に声をかけてみるが、(かわうそ)は慌てて水面に潜ってしまった。

 全く違う生き物に突然声をかけたら、人であれ妖であれ大抵は驚くだろう。仕方ない。そう思って、龍志は一人大福餅に齧りついた。

 ***

 翌日、昼過ぎに龍志は松川に辿り着いた。

 残暑厳しい蝉時雨の日差しの中で、潮風が香る。社寺の石段を登り、後方を振り返れば、海には漁師の小舟が幾つか浮かんでいた。見慣れた景色の筈だが、二年も経てばひどく懐かしく感じるものだった。

 再び前を向き、龍志は石段を登り始めた。境内に辿り着いたが、響くのは蝉の声だけで人の声は一切しなかった。
 いつもなら参拝客で賑わっている筈なのに、誰一人としておらず、まるで時が止まった空間に迷い込んだような錯覚を覚えた。

 鳥居の脇を通り、手水舎を横切り、本殿を横目に歩み、やがて後方に佇むどっしりとした家屋に辿り着いた。だが、玄関はぴたりと閉ざされていた。

 ――埋葬祭ゆえの留守だろうか。

 だが、一応は自分の家だ。龍志が戸に手をかけようとした瞬間、がらりと引き戸が開き、そこに現れた存在に彼は目を瞠った。

 母だった。二年ぶりに会ったが、見ない間に随分と老け込んでしまったように映った。元々小柄で細身だったが、さらにか細くなったようだ。白髪も増え、青白い顔は憔悴しきっていて、黒々とした瞳の眼光はほの微弱なものに変わっていた。

(りゅう)ちゃん、龍ちゃんよね……? 龍ちゃんに似た子が見えて、母さん急いで来たの」

 そのか細い腕のどこにそんな力があったのか。母は龍志の両腕を力強く掴み、彼の身を揺すった。

「ああ、ただいま」

 それしか返せなかった。顔を上げた母は、龍志の胸に顔を埋め、慟哭した。

「父さん、死んじゃったよ」
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