初恋の距離~ゼロになる日
テーブルの上で、静かに時間が積もっていく。
カップの縁に残ったコーヒーの跡が、薄い輪を作っていた。
「……時間が欲しい」
悠真は繰り返すように呟き、視線をこちらに戻した。
「どれくらい」
「明確には……でも、長くは」
「長くは、どれくらいだ」
問われて、言葉が詰まる。彼は一拍置いて、強くならないように声を整えた。
「わかった。三か月。――それ以上は延ばさない」
「……三か月」
「その間に、準備を止める必要はない。俺のほうで段取りは維持する。日取りだけを、三か月後に仮押さえに変える」
まるで仕事のスケジュールを切り直すみたいに、整然とした提案だった。
けれど、その整然さの下に、容易には覗けない感情の熱が確かにある。
「本当に……よろしいのですか」
「良くはない」
即答。静かな否定。
苦く笑った気配が一瞬、唇の端にだけ生まれて消える。
「良くはないが、君がそう望むなら、俺はその望みの枠の中で最大限やる。――ただし一つ、頼みがある」
「……頼み?」
「逃げないで話すこと。俺も、君も。疑問があれば、その場で言葉にする。後から溜めない」
胸の内で、冷たく張っていた膜がきしむ。
“逃げないで話すこと”。
それが最も苦手で、最も必要だと分かっていること。
「……努力します」
「努力じゃなくて、やる」
きっぱりと言われ、目を瞬かせた。
きついのに、不思議と追い詰める響きではない。
背中を支える掌の重みと似た、確かな強さだ。
ふと、悠真が内ポケットから小さなベルベットのケースを出した。
「本当は今日、渡すつもりだった」
開かれた中で、細いリングが淡い光を返す。
プラチナの輪に、小さなダイヤが星座みたいに散っている。
「日取りを延ばすからって、約束まで軽くなるわけじゃない。……持っていてくれ」
「でも、私は……」
「外しても構わない。君が落ち着けるやり方でいい。――ただ、これは“保留”じゃない。延期だ」
穏やかな声の奥に、鋼の芯がある。
ゆっくりと差し出されたケースを、美琴は両手で受け取った。
ふわりとベルベットが手のひらに触れる。
心臓の鼓動と、指先の鼓動が同じリズムになっていく。
「ありがとうございます」
震えないように言うので精一杯だった。
彼はその震えを見ないふりをしてくれたのか、何も言わず、会計を済ませるために立ち上がった。
ホテルのロビーに出ると、天井の灯りが冬の空気を柔らかく照らしていた。
回転扉の向こう、街は夜の色を濃くしている。
「送る」
「いえ、今日は――」
「送る」
重ねて言われ、断る選択肢を丁寧に取り上げられる。
外へ出ると、吐く息が白くほどけた。歩幅の違う二人の影が並ぶ。
その影が交差するたび、たわむように胸が揺れる。
車内は暖かかった。
シートベルトの金具がかちりと鳴る。
発進する直前、悠真がハンドルから手を離し、こちらへわずかに体を向けた。
「本当に、三か月でいいな」
「……はい」
「その間、俺は君の隣からいなくならない。――君が少し離れても、俺は離れない。そういう延期だ」
優しい言葉なのに、退路を塞がれる心地がした。
逃げ場を失う怖さではなく、背中に確かな壁ができる安堵のほうだ。
屋敷に着くと、玄関灯が雪の粒みたいに光っていた。
「ありがとう。お気をつけて」
「美琴」
乗り込む前に呼ばれて振り返る。
「今のままでも、君は十分綺麗だ。……無理に笑わなくていい」
胸が、音を立てて沈んだ。
頷いた瞬間、視界がわずかに滲んだのを、冬の空気のせいにした。
扉を閉めると、玄関の静けさが耳に集まってくる。
コートを預け、応接間に入る。
母がソファで新聞を畳み、こちらを見上げた。
「どうだった?」
「……三か月、延期することになりました」
母は驚きもしなかった。ただ、ため息をひとつ、薄く。
「あなたの顔、少し血色が戻ったわ」
「そう……見えますか」
「ええ。無理に急ぐのはよくないもの。――でも、美琴」
名を呼ぶ声が、柔らかく低くなる。
「時間は、答えを連れてきてはくれるけれど、答えそのものじゃないわ。三か月の中に、ちゃんと話す時間を作りなさい」
「……わかっています」
母はうなずき、席を立った。
部屋に静けさが戻る。
テーブルの上で、小さなベルベットの箱が月の欠片みたいに座っていた。
指輪をそっと取り出す。
窓辺へ歩くと、ガラスに夜景が反射して二つの世界が重なった。
光の粒の向こう、車の赤いテールランプが遠ざかっていくのが見えた気がして、胸がきゅっと縮む。
――“延期だ”。
彼の言葉が、灯りの下で静かに反響する。
その夜は眠りが浅かった。
瞼を閉じれば、ラウンジの窓の外の夕暮れ、リングの光、低い声。
そして、まだ抜けない一本の棘――“疲れる”という音の記憶が、遠くで鈍く疼く。
翌日、朝の光がカーテンの編み目を透けて床に模様を落とす頃、スマートフォンが震えた。
『式場の仮日程、三か月後の土曜に押さえた。詳細はいつでも変えられる。無理のない範囲で、君の希望を教えてくれ』
仕事の報告のようでいて、語尾の柔らかさが彼そのものだった。
“無理のない範囲で”。
その一文に、思いがけず胸が温かくなる。
返信を打つ前に、指輪を指に当ててみる。
冷たい金属が、体温でゆっくり色を失う。
はめる勇気は、まだなかった。
けれど、箱へ戻す手も止まったまま、窓の外の空をしばらく眺めた。
『ありがとうございます。今週のどこかで、お時間いただけますか。少し、お話したいことがあります』
送信。
“話したいこと”。
本当は、たった一つのこと――あの夜の言葉――だけなのに、それを言い出す導入の文が見つからない。
数分もしないうちに、返事が来る。
『明日、夕方。迎えに行く』
短く、揺るぎない。
――逃げない、話す。
昨夜交わした約束が、喉の奥に灯を点す。
昼下がり、母と招待状のデザインを見直しながら、美琴は色見本のブルーに指を滑らせた。
「この色、寒色だけど、不思議と温かいわね」
「“安心する青”って、デザイナーさんが説明していたでしょう」
母が微笑む。
安心。
その二文字に、揺らぐ何かが静かに沈んでいく。
夕刻、侍女が控えめに扉を叩く。
「美琴様、朝倉様からお花が届いています」
白い箱を開けると、真っ白な小ぶりのカサブランカが束ねられていた。
カードには、短い直筆。
『香りが強すぎたら言って。次は変える』
その些細な気遣いが、胸の深いところにまっすぐ落ちる。
思わず笑みが漏れ、それから慌てて唇を引き結ぶ。
――無理に笑わなくていい、と言ってくれたのに。
自然に出る笑いは、どうして止めようとすればするほど、頬の内側にじんわり滲んでしまうのだろう。
夜。
机に向かい、言葉を並べる練習をする。
“あの夜、バルコニーで……”。
“私、聞いてしまって”。
“あなたは、私といると疲れるって”。
どの語尾も、紙の上でぎこちなく止まった。
結局、真っ白な便箋を三度丸めて捨て、灯りを落とす。
枕に頬を埋めると、白い花の香りがほのかに降りてきた。
鼻腔の奥で広がる清冽さが、胸の奥のざわめきを少しだけ整えてくれる。
――三か月。
短くはない。けれど、永遠でもない。
そのあいだに、言葉にする。
“逃げないで話す”。
約束は恐ろしくて、でも救いだ。
目を閉じる。
暗闇の底を、静かに渡っていく。
次に会うとき、私は――。
窓の外で、風が裸の枝をそっと揺らした。
初恋の温度と、誤解の棘。
その二つを胸の中に抱えたまま、美琴はやっと浅い眠りへと落ちていった。
カップの縁に残ったコーヒーの跡が、薄い輪を作っていた。
「……時間が欲しい」
悠真は繰り返すように呟き、視線をこちらに戻した。
「どれくらい」
「明確には……でも、長くは」
「長くは、どれくらいだ」
問われて、言葉が詰まる。彼は一拍置いて、強くならないように声を整えた。
「わかった。三か月。――それ以上は延ばさない」
「……三か月」
「その間に、準備を止める必要はない。俺のほうで段取りは維持する。日取りだけを、三か月後に仮押さえに変える」
まるで仕事のスケジュールを切り直すみたいに、整然とした提案だった。
けれど、その整然さの下に、容易には覗けない感情の熱が確かにある。
「本当に……よろしいのですか」
「良くはない」
即答。静かな否定。
苦く笑った気配が一瞬、唇の端にだけ生まれて消える。
「良くはないが、君がそう望むなら、俺はその望みの枠の中で最大限やる。――ただし一つ、頼みがある」
「……頼み?」
「逃げないで話すこと。俺も、君も。疑問があれば、その場で言葉にする。後から溜めない」
胸の内で、冷たく張っていた膜がきしむ。
“逃げないで話すこと”。
それが最も苦手で、最も必要だと分かっていること。
「……努力します」
「努力じゃなくて、やる」
きっぱりと言われ、目を瞬かせた。
きついのに、不思議と追い詰める響きではない。
背中を支える掌の重みと似た、確かな強さだ。
ふと、悠真が内ポケットから小さなベルベットのケースを出した。
「本当は今日、渡すつもりだった」
開かれた中で、細いリングが淡い光を返す。
プラチナの輪に、小さなダイヤが星座みたいに散っている。
「日取りを延ばすからって、約束まで軽くなるわけじゃない。……持っていてくれ」
「でも、私は……」
「外しても構わない。君が落ち着けるやり方でいい。――ただ、これは“保留”じゃない。延期だ」
穏やかな声の奥に、鋼の芯がある。
ゆっくりと差し出されたケースを、美琴は両手で受け取った。
ふわりとベルベットが手のひらに触れる。
心臓の鼓動と、指先の鼓動が同じリズムになっていく。
「ありがとうございます」
震えないように言うので精一杯だった。
彼はその震えを見ないふりをしてくれたのか、何も言わず、会計を済ませるために立ち上がった。
ホテルのロビーに出ると、天井の灯りが冬の空気を柔らかく照らしていた。
回転扉の向こう、街は夜の色を濃くしている。
「送る」
「いえ、今日は――」
「送る」
重ねて言われ、断る選択肢を丁寧に取り上げられる。
外へ出ると、吐く息が白くほどけた。歩幅の違う二人の影が並ぶ。
その影が交差するたび、たわむように胸が揺れる。
車内は暖かかった。
シートベルトの金具がかちりと鳴る。
発進する直前、悠真がハンドルから手を離し、こちらへわずかに体を向けた。
「本当に、三か月でいいな」
「……はい」
「その間、俺は君の隣からいなくならない。――君が少し離れても、俺は離れない。そういう延期だ」
優しい言葉なのに、退路を塞がれる心地がした。
逃げ場を失う怖さではなく、背中に確かな壁ができる安堵のほうだ。
屋敷に着くと、玄関灯が雪の粒みたいに光っていた。
「ありがとう。お気をつけて」
「美琴」
乗り込む前に呼ばれて振り返る。
「今のままでも、君は十分綺麗だ。……無理に笑わなくていい」
胸が、音を立てて沈んだ。
頷いた瞬間、視界がわずかに滲んだのを、冬の空気のせいにした。
扉を閉めると、玄関の静けさが耳に集まってくる。
コートを預け、応接間に入る。
母がソファで新聞を畳み、こちらを見上げた。
「どうだった?」
「……三か月、延期することになりました」
母は驚きもしなかった。ただ、ため息をひとつ、薄く。
「あなたの顔、少し血色が戻ったわ」
「そう……見えますか」
「ええ。無理に急ぐのはよくないもの。――でも、美琴」
名を呼ぶ声が、柔らかく低くなる。
「時間は、答えを連れてきてはくれるけれど、答えそのものじゃないわ。三か月の中に、ちゃんと話す時間を作りなさい」
「……わかっています」
母はうなずき、席を立った。
部屋に静けさが戻る。
テーブルの上で、小さなベルベットの箱が月の欠片みたいに座っていた。
指輪をそっと取り出す。
窓辺へ歩くと、ガラスに夜景が反射して二つの世界が重なった。
光の粒の向こう、車の赤いテールランプが遠ざかっていくのが見えた気がして、胸がきゅっと縮む。
――“延期だ”。
彼の言葉が、灯りの下で静かに反響する。
その夜は眠りが浅かった。
瞼を閉じれば、ラウンジの窓の外の夕暮れ、リングの光、低い声。
そして、まだ抜けない一本の棘――“疲れる”という音の記憶が、遠くで鈍く疼く。
翌日、朝の光がカーテンの編み目を透けて床に模様を落とす頃、スマートフォンが震えた。
『式場の仮日程、三か月後の土曜に押さえた。詳細はいつでも変えられる。無理のない範囲で、君の希望を教えてくれ』
仕事の報告のようでいて、語尾の柔らかさが彼そのものだった。
“無理のない範囲で”。
その一文に、思いがけず胸が温かくなる。
返信を打つ前に、指輪を指に当ててみる。
冷たい金属が、体温でゆっくり色を失う。
はめる勇気は、まだなかった。
けれど、箱へ戻す手も止まったまま、窓の外の空をしばらく眺めた。
『ありがとうございます。今週のどこかで、お時間いただけますか。少し、お話したいことがあります』
送信。
“話したいこと”。
本当は、たった一つのこと――あの夜の言葉――だけなのに、それを言い出す導入の文が見つからない。
数分もしないうちに、返事が来る。
『明日、夕方。迎えに行く』
短く、揺るぎない。
――逃げない、話す。
昨夜交わした約束が、喉の奥に灯を点す。
昼下がり、母と招待状のデザインを見直しながら、美琴は色見本のブルーに指を滑らせた。
「この色、寒色だけど、不思議と温かいわね」
「“安心する青”って、デザイナーさんが説明していたでしょう」
母が微笑む。
安心。
その二文字に、揺らぐ何かが静かに沈んでいく。
夕刻、侍女が控えめに扉を叩く。
「美琴様、朝倉様からお花が届いています」
白い箱を開けると、真っ白な小ぶりのカサブランカが束ねられていた。
カードには、短い直筆。
『香りが強すぎたら言って。次は変える』
その些細な気遣いが、胸の深いところにまっすぐ落ちる。
思わず笑みが漏れ、それから慌てて唇を引き結ぶ。
――無理に笑わなくていい、と言ってくれたのに。
自然に出る笑いは、どうして止めようとすればするほど、頬の内側にじんわり滲んでしまうのだろう。
夜。
机に向かい、言葉を並べる練習をする。
“あの夜、バルコニーで……”。
“私、聞いてしまって”。
“あなたは、私といると疲れるって”。
どの語尾も、紙の上でぎこちなく止まった。
結局、真っ白な便箋を三度丸めて捨て、灯りを落とす。
枕に頬を埋めると、白い花の香りがほのかに降りてきた。
鼻腔の奥で広がる清冽さが、胸の奥のざわめきを少しだけ整えてくれる。
――三か月。
短くはない。けれど、永遠でもない。
そのあいだに、言葉にする。
“逃げないで話す”。
約束は恐ろしくて、でも救いだ。
目を閉じる。
暗闇の底を、静かに渡っていく。
次に会うとき、私は――。
窓の外で、風が裸の枝をそっと揺らした。
初恋の温度と、誤解の棘。
その二つを胸の中に抱えたまま、美琴はやっと浅い眠りへと落ちていった。