俺様上司はお隣さん?

俺様上司と衝撃メール

「おはようございます……」

窓から差し込んだ太陽の光が目に染みる。
といっても今はもうお昼だ。

今日の私は午前中は有休で、出勤は午後からだった。

悠々と重役出勤するはずだったのに、出社早々大きな欠伸が出たのはきっと昨夜のことが原因だ。

おはようと声をかけてくれる同僚達に返事を返しながら、自分のデスクにバッグを置いて、パソコンの電源ボタンを押した。
起動画面を眺めつつ、横目でちらりとフロア奥にある課長のデスク方向を見ると、彼は営業の田崎君と何やら難しそうな顔で話し込んでいた。

今日も今日とて課長の眉間には深い皺が刻まれている。あれはきっと後々取れなくなるだろう。
そう思いながらも、昨夜見た課長の優しい瞳が脳裏に浮かんで、反射のようにどきりと心臓が跳ねてしまう。

なぜ思い出したんだろう。きっとギャップのせいだ。絶対そうだ。会社にいる時とまったく印象が違ったから、だから気になっているだけだ。そうでしかない。

脳裏に浮かんだ瞳を振り払い、我に返ると田崎君がこちらを見ているのに気が付いた。
そういえば、昨日私は田崎君達との約束をドタキャンしてしまったのだった。気を悪くしてないだろうか。

「藤宮さん! 今日はお昼からだったんですね。おはようございます!」

田崎君は課長と話し終わるなりすぐさま私のところに早足で来てくれて、爽やか笑顔で挨拶をしてくれた。

流石営業の若手ホープだ。人心の掌握術に長けている。

普通の女子ならこの笑顔一つで落とされること請け合いだ。まあ私は、色々と枯れているので無いけれど。

田崎君はふわふわした茶色い髪も相まってまるで子犬のようだ。犬種で言えばポメラニアンだろうか。髪の色は地毛らしい。人懐っこいのもよく似ている。

どうやら彼は昨日のことを全く意に介していないようだ。きっと麻友が事情を説明してくれたんだろう。
流石麻友である。

「おはよう田崎君。……課長も、おはようございます。」

田崎君に返事を返すついでに、課長にも挨拶する。
しかし彼は私には目もくれず、「ああ」と短い返事を返しただけで、自分のパソコンを睨みつけていた。

そこに、昨夜の気安さは微塵もない。

何だ何だ。人が挨拶しているんだからせめて目ぐらい合わせれば良いのに。

昨日はご飯を譲ってくれたから、少しは良い人かと思ったが前言撤回だ。

こっちは課長のせいで昨日はゆっくり眠れなかったというのに。

おかげで、目の下の隈を化粧で隠すのに苦労した。まあ、メイク系配信者さんの裏技に助けられたが。

的場課長が隣に越してきたと発覚した昨夜、課長から貰ったおにぎりを食べてなんとか空腹をやり過ごした私は、いつものようにお風呂に入り、録画したドラマを見たり、部屋の片づけを軽くやって、それからベッドに入った。

ここまではいつもと同じだったのだ。

しかしベッドに入って改めて気が付いたのだ。ベッドが課長の部屋と隣接する壁とぴったりくっついている、ということに。
薄い壁一枚隔てたところに、あの的場課長がいるんだということに。

顔は良いが態度最悪、仕事の鬼で俺様なあの的場司が、壁一枚向こう側にいるのだという事実は、遅かれながら私に強い衝撃をもたらした。

それに不思議だった。

彼がどうして、私に晩ご飯を譲ってくれたのか。

会社では部下と上司、どころかほぼ天敵みたいな関係なのに。それにあの、普段とは違う優しい瞳と声は一体何だったのだろう。
コンビニ袋の奪い合いをした時のことを思い出す。

近づき過ぎた体、頭上で聞こえた課長の優しい声。それに胸が騒いで仕方なかったこと。

そんなことを考えていたらなかなか眠れなくて、私は一晩中、悶々と過ごす羽目になったのだ。

「藤宮! ぼさっとする暇があるなら仕事しろ!」

課長の方を見ながらぼうっとそんなことを考えていたら、本人から鋭い叱責が飛んできた。

いつから見ていたのか、課長がじっとこちらを見ている。視線はこれまでと同じく厳しい……いや、少し違う。

どこか楽しそうな光が、黒い切れ長の目に宿っている。それが無性に気に入らなくて、私はびしりと背筋を伸ばした。田崎君はいつの間か自分の部署に戻ったようだ。

「今やります!」

羞恥心による怒り混じりの返事をしつつ、これからも悩みの種になるであろう課長を私は強く睨みつけた。

すると、思いがけない笑顔が返ってきて、思わず目を瞠る。

「……っ!!」

黒い液晶ディスプレイの上から覗いた課長の両目は楽しげに笑っていた。それは馬鹿にするようなものではなく、どちらかといえば私の反応を面白がっているような、まるで少年が可愛がっている子犬にでも向けるような無邪気な表情をしていた。

その目を見ていられなくて、私は居心地の悪さに慌てて視線を俯けた。すとんと落ちるようにデスクに座り、とっくの昔についていたパソコンを操作してメール画面を開く。

何とか平常心を保てたようだ。けれど頭では、何なのあの顔。一体どうして? どうして私にあんな顔を向けてるの!?

と混乱するもう一人の私が喚いて騒いでいた。今のあの課長を顔を、他にも見た人間はいるのだろうか。

そう思い画面を見るふりしてちらりと周囲に目を向ける。けれどみなパソコン画面に顔を向けていて、こちらに気付いた様子は見られなかった。

ほっと安堵してからメールのチェックを始めると、ちょうど良いタイミングで新着メールを受信した。

社内メールだ。送信者の名前を確認しようとして……私は固まった。

【的場 司】

課長だ。目の前にいるのに、一体何なのだ。言えば良い話ではないのか。

しかし急ぎの業務指示かもしれないので、念のためすぐにメールを開封して確認する。

「ーーーっ!」

その文面を見て、私は絶句した。

喉奥から、悲鳴に近い声が出る。これは衝撃音だ。あまりの衝撃に私の喉が引き攣ったのだ。

驚きと、羞恥と、怒りとの三種混合の感情がない交ぜになって収拾がつかない。
課長のメールにはこうあった。

『藤宮へ』

『下着はせめて部屋の中に干せ。あと俺の引越しのことは誰にも言うな』

下着。そう下着。私の洗濯物だ。
私は洗濯物を今日もベランダに干していた。だって室内干しは嫌いなのだ。

洗濯物は太陽の光でからりと乾いた状態が好きだから。

部屋は二階だし、他の洗濯物に紛れて一応奥の方に干すなど気を遣ってはいた。ちょうど隣の部屋が空いていたから、これまでずっと隣室側に干していたのだ。

今日の朝もついうっかり、同じように干してきた。

そしてうちのボロアパートはベランダの隔て板、いわゆる防火戸が上下に隙間があるタイプだったりする。

なので上部分などは背の高い人間ならば隣室のベランダが見えてしまうような構造なのだ。

つまり、課長の部屋のベランダから、私の部屋のベランダが全部とは言わなくても見えているというわけで。

し、しまった……!

整理した状況を飲み込んだ途端、かあっと、顔に血が上った。

蒸気でも噴き出すんじゃないかというくらいの爆弾的な羞恥心に襲われる。

見られた。下着を、課長に見られた。

ぎゃああと叫びたいのを何とか堪え、心の中だけで大絶叫する。

てっきり忘れていた。今隣には課長がいるのだ。無駄に背の高い課長の身長なら、ベランダの上部がきっと丸見えだったことだろう。
しかも私が下着を干していたのは課長の部屋側。きっと顔を上げた瞬間に目に入ったはずだ。

濃く青い、ネイビーブルーのレースのブラや、セットの下着が。

怒りと恥ずかしさで、私はすぐさま課長を全力で睨み付けた。

本当に、視線で人が刺せるなら、今の私はきっとそうしていただろう。

むしろあの涼しげな頬をひっぱたいてやりたかった。こういう状況は、大人なら見て見ぬふりをするのがマナーというものだ。だけどあの男はそうしなかった。

わざわざ指摘して、私の怒りと羞恥心を煽ってきたのだ。

あの陰険男……!

ギン、と音が鳴りそうなくらい力を込めて睨み付けていると、課長の両目が笑ったのがわかった。

それを見て、腹の底から怒りが沸いてくる。だから私は感情をそのままメールの返信分に思い切りぶつけることにした。


『課長へ』

『大人なら見て見ぬフリくらいしてください。セクハラです。事案ですね。課長が変態だと知れたら解雇待った無しですね。次回の人事評価をどうぞお楽しみに。あと引っ越しのことなんて誰にも言いません。私も知られたくありませんので。』


過去最高の速さで打ち終えて送信ボタンを押した私はそのまま送信画面を穴が空きそうなほど見つめた。メールと一緒に呪いも送れないものかと思案する。昔そういうチェーンメールが流行ったが、あれに効果はあったのだろうか。眉唾だ。だが課長は一度箪笥の角で足の小指を潰されれば良いと思った。

返信に怒りをぶちまけたおかげだろうか。

いくらか落ち着いた私は仕事用のデータを開くことにした。

それでも課長の様子には耳を澄ませている。どうやら今確認しているようだ。

「っくっくっく」

喉奥で笑いを噛み殺しているような声が聞こえた。笑うなこの変態。私は内心で素早く突っ込みを入れた。

少しは焦るかと思っていたのに、それどころか相手は余裕のようだ。人事の弱みでも握っているのだろうか。

だとすれば問題だ。この会社は鬼畜に乗っ取られていることになる。何という無慈悲な世界か。私はここで働いていて良いのだろうか。

一瞬本気で転職について考えたところで、再び新着メールを受信した表示がなされた。

上司が社内メールを私的利用するとは一体どういう了見だろうか。職権乱用だ。職務怠慢だ。
すぐさま課長の変更を要求したい。もれなく隣人も変えて欲しい。

そう嘆きながら、課長からのメールを確認する。

『セクハラでも事案でもない忠告だ。ベランダはやめとけ。女の一人暮らしなのが丸分かりだ。防犯的に却下する。あと人事に連絡したところで無駄だ。それに藤宮、お前これから覚悟しろよ。』

メールにはそう書かれていた。

忠告、という言葉に眉をひそめる。そんな優しい男だとは思えない。確かに昨日は、私の身を案じてくれたように見えたけれど……というより、どうして防犯について的場課長に指図されねばいけないのか。その部分が一番納得がいかない。

だけど、彼が言っていることが正論であることは私にもわかっていた。

元々ベランダに干すのは一般的にも良くないと言われている。特に下着は。そもそも私などを狙う酔狂な者がいるだろうかとは思うけれど、第三者的に、この場合課長だが男性である彼が見てそう思うなら一理あるのかもしれない。

下手をすればセクハラ案件で人事に通報されかねないような内容を送ってきている時点で、もしかするとだが、本当にすずめの涙くらいは私を案じて言ってくれていることなのかもしれない。

まあ、人事に言っても無駄だとは書いてあるが。

的場課長は仕事の出来る人間だ。それは毎日彼の仕事ぶりを見ていればわかる。厳しいが、言っていることは正しいし、誰かを贔屓したりもしない公平な人間である。それに、彼は他人に厳しいが自分にも厳しいタイプだ。

部下の失敗には必ず自分も同行して頭を下げるし、自分の失敗ではないのに部下の尻拭いを何度もしているのを見た。

だからきっとーーーこの正論は、受け入れるべきなのだろう。

『課長へ』

『忠告は受け取ります。ですがもう少し言い方を工夫してください。あと暫くは箪笥の角に気を付けてください。足の小指が危険ですので』

悔しい思い半分、怒り半分、感謝を小さじ一杯くらいで書いた返信を、私は送信してからその日の業務に取りかかった。
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