氷の王子と消えた託宣 -龍の託宣2-
「自分で行くそうだ」

 言われた意味が分からず、ハインリヒは濡れた瞳のままジークヴァルトの背を見上げた。

「いつか、自分でお前を殴り飛ばしに行く。姉上はそう言っていた」

 はっと息をのんだハインリヒを振り返ることもせず、ドアのノブは回された。

「これ以上、お前とこの話をするつもりはない。一時間だけ人払いをさせておく。それまでに王太子の顔に戻っておけ」

 それだけ言い残すと、ジークヴァルトは今度こそその場を出ていった。一人きりの広い部屋で、ハインリヒの頬を幾筋もの涙が伝う。
 ハインリヒはその時に悟った。ジークヴァルトが貴族として王家に従う道を選んだのは、他でもないアデライーデがそう望んだからなのだ。床についた手の甲に、しずくが跳ねては流れていく。生温かいその感触は、この皮膚の上にいまだ残ったままだ。

「ハインリヒ様?」

 覗き込むように呼ばれ、はっと我に返った。また意識を飛ばしていたようだ。

「ああ、すまない」

 あれから五年の歳月が過ぎた。あの日から、自分は何ひとつとして変わっていない。

「わたしは……誰かに見張っていてほしかったのかもしれない」

 激務が続く日々は、都合よくすべてを忘れさせてくれる。その陰で、今も嘆き苦しむ者がいる。
 己の愚行を(さげす)む存在が欲しかった。蓋をして見ないふりをする弱い自分を、これ以上、野放しになどできないように。

「その役目は、リーゼロッテ嬢には不向きなのでは?」

 横でティーポットを手にしたまま、カイはあきれたように肩をすくませた。
 カイはいつもハインリヒを擁護(ようご)する。終わったことはもうどうしようもないと、簡単に甘やかすことをその口に乗せてくる。

「女性の目の方が厳しいものだろう?」
「そうおっしゃるのなら、アンネマリー嬢にこそお話しになればよろしいのに」
「……ああ、そうだな」

 その発言に気分を害するでもなく、ハインリヒは静かに言った。
 本音を言えば、アンネマリーに自分の愚かさなど知られたくはない。だが、リーゼロッテにすべてを話したのは、彼女を通してアンネマリーに伝わってしまえばいい。そう思ったのも事実だった。

「カイ。忙しい中また引き留めて悪かった。年明けの夜会までは大きな公務もない。あとはこちらでどうにでもするから、通常任務に戻っていい」

 長く重いため息をついた後、ハインリヒは残っていた紅茶を飲みほした。ちょうどよい甘さがことさら美味しく感じたのは、初めがひどすぎたせいかもしれない。
 空になったカップに残りの紅茶を注ぎ込むと、カイは手にしたポットをワゴンに戻した。

< 518 / 684 >

この作品をシェア

pagetop