さくらびと。 恋 番外編(3)
「猪尾千尋さん……ですか?」
有澤先生の声が低く沈む。
「確か3年前の……板垣先生が担当していた患者さんですよね?」
「そうだ。
君には言っていなかったが…あの時、受け持ち担当をしていた看護師が桜井さんだったんだ。
彼女も担当看護師として責任があるんだよ…」
板垣先生の言葉に有澤先生の眉がぴくりと動いた。
一瞬にして彼の表情が変わる。
その目には抑えきれない怒りが宿っていた。
「担当看護師として?」
有澤先生の声は静かだが危険な響きを帯びていた。
「自殺は防げるものではないと教育されましたよね」
「もちろんわかっている」
板垣先生は苛立った様子で言い返す。
「だが担当ナースとしての厳密な体制があれば……」
「つまり……」
有澤先生が一歩前に出る。
その勢いに板垣先生が思わず後退した。
「桜井さんが毎日の観察を怠っていたと?」
板垣先生は言葉に詰まった。
「いや……そういうわけではないが……」
「だったらなぜ彼女を責めるんですか。」
有澤先生の声が突如として強くなる。
「彼女がどれほど苦しんだか、板垣先生が一番知っているんじゃないんですか?」
「それは……」
板垣先生の声が震える。
「だが俺が監督不行き届きで叱責されたんだぞ……それで上層部からは俺も責任を問われた……」
「だからと言って患者さんの命と看護師の気持ちを秤にかけるんですか?」
有澤先生の声は更に怒気を含んでいく。
「私たち医療従事者の使命はなんですか?
人の命を救うことでしょう。
それが我々の役割です」
板垣先生は言葉を失う。
その視線は床に落ちていく。
「確かに……そうだが……」
「しかも猪尾千尋さんは精神科領域の患者ではありませんでした」
有澤先生は畳み掛ける。
「彼女は回復期のリハビリ患者でしたよね。
担当医であるあなたが最も注意すべき立場だったはずです」
周囲のスタッフたちが息を呑む音が聞こえるようだった。
有澤先生の指摘は的確で容赦がない。
板垣先生の顔色が徐々に変わっていくのが分かる。
「おっしゃる通り……」
板垣先生が搾り出すように言う。
「確かに俺にも責任はあった。だが当時の俺は若くて未熟だったんだ……」
「今も同じです」
有澤先生の声が冷たく響く。
「現在のあなたが桜井さんを同じように非難している限り」
沈黙が再び訪れる。
スタッフたちの間に不穏な空気が漂っていた。
皆が板垣先生の次の言葉を待っている。
「すまない……」
板垣先生が項垂れる。
「俺が間違っていた。彼女に謝らなければならない」
「それならどうして……」
有澤先生が追及する。
「5年も経って今さら蒸し返す必要があるんですか?」
板垣先生は深いため息をつく。
「上層部から今回の件で彼女の過去の過失を持ち出してきたのかと……俺は……彼女に思い直して成長してほしかった……」
「結果的には傷付けてしまいましたね」
有澤先生の声に僅かな同情が混じる。
「桜井さんを大切に思う気持ちは分かります。ですがやり方が間違ってました」
「分かっている」
板垣先生が再び頭を下げる。
「本当に申し訳ない……有澤先生……許してくれ」
有澤先生は一瞬躊躇うような表情を見せた後、静かに言った。
「私は構いません。大切なのは桜井さんがどう思うかです」
二人の医師の間で交わされる会話を聞きながら、周りのスタッフたちは安堵のため息をつき始める。
病棟の緊張した空気が少しずつ和らいでいくのを感じていた。