寡黙な公爵と託宣の涙 -龍の託宣3-
 その視線がふいに空に向けられる。その時、厩舎の中から一頭の黒馬が飛び出してきた。放たれた憎悪の塊を阻止するように、黒影号がジークヴァルトの前へと躍り出る。
 鋭いいななきとともに、黒影号はしなやかに高く立ち上がった。(つや)やかな青毛が日の光にさらされて、美しい毛並みが光沢を返す。

 その瞬間、ジークヴァルトはそこに(まぼろし)のような人影を見た。黒影号に重なるように、蜂蜜色の長い髪をたなびかせた精霊のような女性が浮かぶ。緑の瞳が悲しげに揺らめいて、黒影号の体を盾にしながら、清廉(せいれん)な緑の力が襲い来る異形たちを跳ね退()けた。

 溶けるように精霊が掻き消える。その直後、黒影号の大きな体が、もんどり打って目の前で倒れ落ちた。長い(たてがみ)(くび)をのけ反らせて、最期(さいご)に幾度か小さく痙攣(けいれん)する。泡を吹いたまま硬直したように動かなくなった馬躰(ばたい)から、赤い血があふれ出る。その生温かい血だまりは、ジークヴァルトのまわりにみるみるうちに広がった。

「ジークヴァルト様……!」

 マテアスの悲鳴のような声が響く。退(しりぞ)けられた異形たちが再び目の前に迫って、血だまりに足を滑らせながら、マテアスがかばうように飛び込んできた。次の瞬間、血を振りまきながら、マテアスの体は弧を描きながら遠くへ飛んだ。

「あああぁぁあぁぁぁぁぁ――……っ!」

 瞬間、ジークヴァルトの体から力がほとばしる。つぶされた心を保つことができずに、訳もわからぬまま、すべてが身の内から放たれた。そのあとのことは何ひとつ記憶にない。

 意識が戻り、寝台から起き上がれるまで、ひと月以上の歳月を要した。

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