寡黙な公爵と託宣の涙 -龍の託宣3-
 叫ぶように言って、この手を逃れようと身をよじらせる。頭が真っ白になったエーミールは、エラの頭を乱暴に引き寄せた。
 否定を投げつける唇を、無理やりに塞ごうとする。自身の唇がエラのそれに触れようとした瞬間、ぱぁんと乾いた音が大きく響いた。

 エラに頬を叩かれたのだ。一瞬遅れた痛みにそう思い至るのと同時に、何者かがふたりの間に割って入った。

「エーミール様、ご自分が何をされているか分かっておられるのですか?」

 エラの体を後ろ手に(かば)い、目の前に立つのはマテアスだった。
 はっとエラの顔を見た。マテアスの背を掴む手が小刻みに震え、(おび)えた瞳のまま視線が()らされる。血の気が引くようにエーミールは正気を取り戻した。

「いかにエーミール様といえど、このような行いを見過ごすわけにはまいりません。この件は旦那様に報告させていただきます。よろしいですね?」

 事務的に告げるマテアスに、返す言葉もみつからなかった。呆然とエラを見続けるも、その顔がこちらに向けられることはない。

「エラ様、お怪我は?」

 力なく首を振るエラの背に、マテアスはそっと手を添えた。

「まいりましょう。リーゼロッテ様が心配しておいでです。ご自分でお歩きになれますか?」

 今度は小さく頷くと、エラの頬をひと粒の涙が滑り落ちた。
 あの涙をエーミールは知っている。ダーミッシュ伯爵の屋敷の片隅(かたすみ)で、下衆(げす)な男に追い詰められていたエラを救ったのは、誰でもないこの自分だ。だがあの日、今マテアスのいる場所には自分が立っていたはずだった。

(わたしは一体何を――)

 激情に任せて我を忘れるなど、今まで一度もありはしなかった。夢であってほしいと思うが、頬の痛みがその願いを打ち(くだ)く。

 遠ざかっていくエラの背を見つめ、エーミールは誰もいない廊下をひとり立ち尽くした。

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