失恋したので復讐します
人目をはばからず泣いているが、千尋のような客はときどきいるのかもしれない。
穂高は慌てた様子もなく、おしぼりを差し出してくれた。
「……ありがとう」
千尋は温かなおしぼりでそっと目もとをぬぐった。
「ごめんね。こんなに迷惑をかけて……」
穂高に謝罪して、今さらながら周囲をうかがう。
カウンター席を見ると、千尋以外に数人の客がいた。こちらを気にしているのは、千尋の反対側の端に座る女性ひとりだけのようだ。薄暗いせいか、思ったよりも注目を浴びてはいないようでほっとした。
「迷惑ではないよ。別に大声あげて泣いてるわけじゃないし」
穂高が肩をすくめた。気にするなということだろうか。
「でも三十にもなるのに情けない」
自分が嫌になってしまう。
「大人だって泣きたいときくらいあるだろ? 全然おかしなことじゃない。傷ついたときは思う存分泣いたっていいんだよ」
穂高は淡い色味のカクテルを千尋に出すと、ほかの客の対応に向かった。
ひとりになった千尋は、カクテルグラスを手に取りひと口飲んだ。
すっとした味わいが、どろどろした心を洗い流してくれるようだ。
(嫌なことも全部忘れてしまえたらいいのに)
でもまだ無理だ。だってこんなに胸が痛いのだから。新しい涙がこぼれるのを感じながら、千尋は静かにカクテルを飲み干した。
はっとして目を開いたときには、周囲の様子が変わっていた。先ほどまで流れていたラウンジミュージックは止まり、代わりにカチャカチャと食器を重ねるような音が聞こえてくる。
どうやら店内に残っているのは千尋だけのようだ。さっき疲れを感じて目をつむったら本当に眠ってしまい、そのまま閉店時間を迎えたらしい。
(どうしよう、すごい迷惑をかけちゃった)
もしかしたら起こされたのに気づかず爆睡していたのかもしれない。店側からしたらいい迷惑だろう。
千尋は慌ててスツールから下りた。そのとき小さくたたんでスツールの背もたれにかけていたコートが床に落ちてしまった。
屈んで拾おうとしたとき、誰かが近づいてくる足音がした。
「あ、気がついたんだ」
続いて軽い調子の声が聞こえてくる。
顔を上げるとバーテンダー姿の穂高がいた。右手に水が半分くらい入ったグラスを持っている。
屈んでいた千尋は大急ぎで立ち上がった。
「相川君、私眠っちゃったみたいで、たった今気づいて……」
「一度声をかけたけど起きなかったからそっとしておいた。疲れてるみたいだったし」
「もう閉店だよね? 迷惑かけてごめんなさい……」
がばっと頭を下げると、穂高は苦笑いし、千尋が座っていた席にグラスを置いた。
「とりあえず座って飲んだら? 起きたばかりで喉が渇いてるだろ?」
「あ、ありがとう」
言われた通り再び席に座ると、穂高も隣のスツールに腰を下ろした。
「あの、本当にごめんなさい」
「いいって。ここのオーナーとは昔からの知り合いだから融通が利くんだ」
「知り合い?」
「そう。バーテンダーのバイトも、人手不足で困ってるからってオーナーに頼まれてやってる」
「そうなんだ……」
千尋は相づちを打ってから、再び店内を見回した。
寝る前までは穂高以外のスタッフがいたが、今は見あたらない。
「それより少しはすっきりした?」
「あ……うん」
お酒の影響もあり、かなり愚痴をこぼしたのは自覚している。たしかにその瞬間はすっきりした。
けれど根本的な解決にはなっていない。愚痴を言って一瞬すっきりしたとしても、完全に心が晴れることはないのも当然だ。むしろ少し酔いが覚めたことで、うっすらと罪悪感のようなものが湧いてくる
「まだ無理か」
穂高は言葉にしない千尋の気持ちを察したのだろう。
「早く立ち直りたいと思ってるけど、どうしても気持ちが整理できない。あまりに突然の別れだし、彼はまるで別人みたいになってしまって」
千尋は膝の上の手をぎゅっと握りしめながら言葉を続ける。
「今、辻浦さんのことはどう思ってる?」
「どうって……」
戸惑いながら穂高の顔を見た瞬間、どきりとした。
彼がいつになく真剣な目で千尋をじっと見つめている。
「納得がいかないんだろ?」
「それは……」
納得なんていくわけがない。今だって心の中では、〝どうして?〟ばかりがぐるぐる回っているのだから。
「客観的に聞いても理不尽な目に遭ってると思うよ。割りきれなくて当然だ」
「相川君……」
共感してもらえたからだろうか、ほんの少しだけど心が癒やされたような気がする。
なにより穂高が、千尋の話を信じてくれているのがうれしい。ほかの同僚だったら、きっと啓人の言い分を信じていただろう。
(信じて寄り添ってもらえるのはこんなにうれしいものなんだな……)
穂高は慌てた様子もなく、おしぼりを差し出してくれた。
「……ありがとう」
千尋は温かなおしぼりでそっと目もとをぬぐった。
「ごめんね。こんなに迷惑をかけて……」
穂高に謝罪して、今さらながら周囲をうかがう。
カウンター席を見ると、千尋以外に数人の客がいた。こちらを気にしているのは、千尋の反対側の端に座る女性ひとりだけのようだ。薄暗いせいか、思ったよりも注目を浴びてはいないようでほっとした。
「迷惑ではないよ。別に大声あげて泣いてるわけじゃないし」
穂高が肩をすくめた。気にするなということだろうか。
「でも三十にもなるのに情けない」
自分が嫌になってしまう。
「大人だって泣きたいときくらいあるだろ? 全然おかしなことじゃない。傷ついたときは思う存分泣いたっていいんだよ」
穂高は淡い色味のカクテルを千尋に出すと、ほかの客の対応に向かった。
ひとりになった千尋は、カクテルグラスを手に取りひと口飲んだ。
すっとした味わいが、どろどろした心を洗い流してくれるようだ。
(嫌なことも全部忘れてしまえたらいいのに)
でもまだ無理だ。だってこんなに胸が痛いのだから。新しい涙がこぼれるのを感じながら、千尋は静かにカクテルを飲み干した。
はっとして目を開いたときには、周囲の様子が変わっていた。先ほどまで流れていたラウンジミュージックは止まり、代わりにカチャカチャと食器を重ねるような音が聞こえてくる。
どうやら店内に残っているのは千尋だけのようだ。さっき疲れを感じて目をつむったら本当に眠ってしまい、そのまま閉店時間を迎えたらしい。
(どうしよう、すごい迷惑をかけちゃった)
もしかしたら起こされたのに気づかず爆睡していたのかもしれない。店側からしたらいい迷惑だろう。
千尋は慌ててスツールから下りた。そのとき小さくたたんでスツールの背もたれにかけていたコートが床に落ちてしまった。
屈んで拾おうとしたとき、誰かが近づいてくる足音がした。
「あ、気がついたんだ」
続いて軽い調子の声が聞こえてくる。
顔を上げるとバーテンダー姿の穂高がいた。右手に水が半分くらい入ったグラスを持っている。
屈んでいた千尋は大急ぎで立ち上がった。
「相川君、私眠っちゃったみたいで、たった今気づいて……」
「一度声をかけたけど起きなかったからそっとしておいた。疲れてるみたいだったし」
「もう閉店だよね? 迷惑かけてごめんなさい……」
がばっと頭を下げると、穂高は苦笑いし、千尋が座っていた席にグラスを置いた。
「とりあえず座って飲んだら? 起きたばかりで喉が渇いてるだろ?」
「あ、ありがとう」
言われた通り再び席に座ると、穂高も隣のスツールに腰を下ろした。
「あの、本当にごめんなさい」
「いいって。ここのオーナーとは昔からの知り合いだから融通が利くんだ」
「知り合い?」
「そう。バーテンダーのバイトも、人手不足で困ってるからってオーナーに頼まれてやってる」
「そうなんだ……」
千尋は相づちを打ってから、再び店内を見回した。
寝る前までは穂高以外のスタッフがいたが、今は見あたらない。
「それより少しはすっきりした?」
「あ……うん」
お酒の影響もあり、かなり愚痴をこぼしたのは自覚している。たしかにその瞬間はすっきりした。
けれど根本的な解決にはなっていない。愚痴を言って一瞬すっきりしたとしても、完全に心が晴れることはないのも当然だ。むしろ少し酔いが覚めたことで、うっすらと罪悪感のようなものが湧いてくる
「まだ無理か」
穂高は言葉にしない千尋の気持ちを察したのだろう。
「早く立ち直りたいと思ってるけど、どうしても気持ちが整理できない。あまりに突然の別れだし、彼はまるで別人みたいになってしまって」
千尋は膝の上の手をぎゅっと握りしめながら言葉を続ける。
「今、辻浦さんのことはどう思ってる?」
「どうって……」
戸惑いながら穂高の顔を見た瞬間、どきりとした。
彼がいつになく真剣な目で千尋をじっと見つめている。
「納得がいかないんだろ?」
「それは……」
納得なんていくわけがない。今だって心の中では、〝どうして?〟ばかりがぐるぐる回っているのだから。
「客観的に聞いても理不尽な目に遭ってると思うよ。割りきれなくて当然だ」
「相川君……」
共感してもらえたからだろうか、ほんの少しだけど心が癒やされたような気がする。
なにより穂高が、千尋の話を信じてくれているのがうれしい。ほかの同僚だったら、きっと啓人の言い分を信じていただろう。
(信じて寄り添ってもらえるのはこんなにうれしいものなんだな……)