失恋したので復讐します
 しかし、しみじみと実感していたそのとき、穂高が予想外の発言をした。
「山岸さんは、悔しくないの?」
「悔しい?」
 千尋は戸惑い穂高を見返した。彼がゆっくりうなずいた。
「辻浦さんに対して怒ってないのか?」
(怒る? 私が啓人に?)
 千尋はますます戸惑って、視線をさまよわせた。
 考えてみたら交際期間中、啓人とけんかをした覚えがない。
 千尋はもともと感情的に怒る方ではないが、啓人は意外と短気な面がある。
 友人と諍(いさか)いになり激怒して『あいつとは縁を切った』と本当に関係を絶ったことが、千尋が知っているだけでも二回あった。
 怒っているときの啓人は本当に怖くて、千尋は黙ったまま彼の激情が去るのを待つしかなかった。
 こだわりが強い啓人は、自分が納得できないと機嫌が悪くなるから、何事も千尋が合わせるようにしていた。
(……私、かなり我慢していたんだな)
 当時は気づいていなかったが、今振り返るとはっきりわかる。
 無意識だったけれど啓人を怒らせて関係を悪くさせたくなくて、無理やり自分を曲げて合わせていた。
(私って、自分というものがなかったんだな)
 なにも残っていないと感じて当然だ。
(ああ……なんだかむかむかする)
 心の中からこみ上げる衝動。これは間違いなく怒りの感情だ。
 裏切られて捨てられて、最後はストーカーに仕立て上げられた。
 でもこの怒りは啓人に対してだけじゃない。これまでの自分自身が許せない。そう強く思う。
 千尋は穂高を見つめて口を開いた。
「怒ってる。頭にきてる。啓人だけじゃなくて馬鹿な自分にも」
 千尋にしては強い声に、穂高がわずかに目を瞠(みは)る。
 けれど次の瞬間、不敵な笑みを浮かべた。
「それなら復讐しちゃえば?」
「え……復讐?」
 予想外の返事に、千尋は思わず瞬きをする。
「捨てた男にやり返すってこと」
「そ、そんなの駄目でしょ!」
(復讐って、なんとかして啓人を陥れるってことでしょ?)
 いくらむかつくからといって自分には無理だと思うし、そもそもその力だってない。なにか企(たくら)んだところで逆にやり返されるのが落ちだろう。
 穂高が苦笑いした。
「たぶん、山岸さんが想像しているようなことじゃない」
「え?」
「俺が言う復讐は、相手を後悔させてみないかってこと。別れなければよかったって悔しがらせるんだよ」
「……相手を後悔させる?」
「それなら平和主義の山岸さんにだって可能だろ?──」
 穂高の説明が頭に染み入ってくる。
(たしかにそれなら後ろめたさがなくて、すごくすっきりするだろうけど)
 むしろ理想的な復讐方法だと言える。
(……でも無理だよ)
 啓人は今、理沙を狙っている。ふたりはとても親しいから、すでに恋人同士なのかもしれない。
 理沙と自分を比べたとき、どんなにひいき目で見ても千尋に軍配は上がらない。それが現実だ。
「彼が私と別れたことを後悔するわけないよ。新しい彼女のことで頭がいっぱいで思い出しもしないんじゃないかな。もし思い出したとしても面倒だと思うくらいで」
 自分で言っておきながら悲しくなる。
「前向きに考えたら?」
「前向き?」
 怪訝な顔をする千尋に、穂高がうなずいてみせる。
「そう。たしかに今のままじゃ辻浦さんの気持ちを変えることはできない。はっきり言うとあの人は山岸さんを見下してると思う。だからそう思わせないように山岸さんが変わればいい。自分を磨いて今よりいい女になるんだよ。誰からも軽んじられないほどに」
 千尋は穂高の発言に衝撃を受けた。
(私が……いい女に?)
 そんなことは考えたことがなかった。いい女だなんて平凡な自分には縁がない褒め言葉だと思っていたから。
「山岸さんさえその気になれば、俺が協力する」
「……どうして協力してくれるの?」
 穂高は会社では同僚と馴れ合ったりせずに距離を取っている。今日だって、先輩社員からのヘルプの要請をけんもほろろに断っていた。
 そんな彼が、なぜ千尋の個人的な復讐に手を貸すなんて言うのだろう。
「俺も辻浦さんに思うところがあるから、悔しがるところが見たいんだ」
「え……啓人ともめたことがあるの?」
「まあいろいろあって。だから山岸さんの復讐に乗っかりたいんだ」
 穂高が少し目を細めて言う。
「そうなんだ……」
(啓人に復讐……)
 千尋は目を閉じて、穂高が言う未来を思い浮かべた。
 今よりもずっと自信を持って明るい顔をしている自分。誰からも軽んじられず、きっと毎日が楽しく幸せだと感じるだろう。
「本当にそんなふうになれたらいいな」
 ぽつりとこぼした本音に、穂高が微笑む。
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