失恋したので復讐します
 冷静になると、なにもかもが啓人の言いなりだったことに気づく。でも当時はそれがおかしいと思わず苦痛でもなかった。
(啓人が喜んでくれるのがうれしかったんだよね。彼が褒めてくれると認められているようで安心した)
 その積み重ねででき上がったのが、なにもない自分。
(これからは自分が好きなことをして、好きなものを揃てみようかな)
 おしゃれをしてインテリアも思いきって変えてみようか。
 そうやって前向きに考えていたら、いつか失恋の痛みも癒えるかもしれない。

 出社すると昨日と変わらず同僚の視線がつらかった。
 全員が全員、千尋に悪印象を持っているわけではないのかもしれないが、昨日の女性社員のような認識の人の方が多いだろう。
 千尋は気にしすぎないようにと、自分に言い聞かせながら自席に着き、今日の仕事の準備を始めた。
 抱えているタスクを確認し、優先順位を考えたうえスケジュールを立てる。
 夜のうちにたまっていたメールに目を通し、すぐに判断できるものは返信していく。ほかは調べてから返信する必要があるので保留にしておく。
 そうやって仕事を片づけていると、気づいたときには周囲の声は気にならなくなっていた。
 昨日と比べるとかなり集中できている。
「山岸さんちょっといい? これ処理しておいてくれるかな。明日の午前中までに」
 朝の業務を開始して一時間すると上司から呼ばれ、突発的な資料作成の仕事を振られた。
「はい」
 期日などを確認して引き受けてから席に戻った後も、近くの席の社員から経費精算の事務処理や建築資料の入手を次々と依頼された。今日は部内全体が多忙なようだ。
 さすがに入社八年目にもなると多少の無理は利くので、ひとつひとつ片づけていく。
 あっという間に時間が流れて気づけば昼休憩の時間に入っていた。
 外出せずに残っていた同僚たちも、食事に出たのか千尋ひとりだ。
(私も早く食べてこないと)
 机に出した資料をしまっていると、人が近づく気配がした。
「山岸さん」
 聞こえた声に、千尋の心臓が大きく跳ねた。血の気が引いていくのがわかる。
 素っ気ない声に親しみの感じられない呼び方だが、これまで千尋が毎日のように耳にしていた声――。
 こわごわ顔を上げると思った通り、啓人が千尋を見下ろしていた。
 彼は手にしていた数枚の書類を、千尋の机の上に無造作に置いた。
「これ処理しておいて。急いでいるから明後日の三時までに」
 千尋は突然のことに固まってしまい、すぐに返事ができずに机に置かれた書類を眺めた。
 啓人に話しかけられたことに対する動揺はもちろんだが、あんなデマを流しておきながら平然と千尋に仕事を頼んできたことへの驚きが大きい。
 仕事だからプライベートの問題を持ち込まないと考えているのだとしても、今の彼の態度は普通の同僚に対するものではない。
 居丈高で、仕事をお願いするというよりも、千尋がやるのがあたり前と考えているのが透けてみる。無茶振りも千尋が相手なら問題ないと思っているみたいだ。
「……明後日の三時までには無理です」
 千尋の返事に驚いたのか、啓人が目を見開いた。
「今までは問題なくできていたはずだけど」
「ほかに急ぎの仕事があるので、その後になります」
 啓人がむっとしたように眉をひそめる。
「急ぎだって言ったよな? 最優先でやってくれよ」
 千尋は机に放り出された書類をもう一度見た。
 建築模型作製のために必要な図面だ。
 通常プレゼン用の建築模型は、3Dプリンターをメインに手作業をプラスして製作する。
 建築デザイン部では、外注する場合や建築士が自ら作る場合など、状況によってまちまちだが、啓人はこだわりが強いうえに毎回時間の余裕がない。
 千尋はもともと担当ではなかったが、啓人の手伝いをしているうちに手順を覚えて、それなりに見栄えよく作れるようになった。
 すると啓人は手伝いの範囲を超える要求をして、千尋に任せるようになったのだ。
「……この素材は在庫がないから発注になるので」
 啓人は模型素材にも柔軟性や透明度など、求めることが多いので都度発注することになる。
(こだわるなら、早く頼まないと間に合わなくなるのに)
 すでにもう希望の時間には間に合わない状況だ。
 でも千尋なら急な要請も文句を言わず、なんとかするだろうと考えたのだろう。
 今までずっとそうだったから。
 もやもやした感情が胸中に広がり、千尋は小さくため息をついた。
 本当に仕事が立て込んでいて、どうしても手が回らなかったのなら仕方がない。
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