失恋したので復讐します
 でも彼は、昨日も今朝もとくに忙しそうな様子は見られなかった。同僚たちが慌ただしく出ていく中、ずっと理沙について彼女の仕事の面倒を見ていたのを知っている。ずいぶん余裕があるなと思ったくらいだ。
 理沙には親切丁寧に対応している一方で、千尋を平然とこき使おうとする。
 さすがにむっとしてしまうけれどそんなふうに思うのは、千尋が啓人の嘘を根に持って、仲のよいふたりに嫉妬しているからなのだろうか。
(私も私情を挟んじゃってるのかな……そうだとしたらよくないよね)
 揺れ動く感情に折り合いをつけながら、千尋は気を取り直して口を開いた。
「ほかの仕事も急ぎなので順番に処理します。三日後まで待ってもらえますか?」
「は?」
 千尋としては譲歩したつもりだったのに、啓人の整った顔は怒りにゆがんだ。
「今までは一日でできたじゃないか」
 啓人は人の出入りを気にしているのか声を抑えているが、千尋を睨む目からは強い苛立ちが伝わってくる。
「それは……」
 千尋が無理をしていたからだ。彼の助けになりたい一心で、無理やり仕事を調整して間に合わせていた。
 そのぶんほかの仕事が遅れて残業をしたため、仕事が遅いという評価の低下につながったけれど、かまわないと思っていた。
「……以前と今では状況が違うので」
 彼の怒りに怖(おじ)気(け)づきながらもなんとか答えると、啓人は口元を歪めて笑った。
「なるほど、嫌がらせってことか」
「え?」
 啓人が千尋に一歩近づき、一層声を潜めた。
「俺にふられた仕返しってことだろ?」
 千尋は驚きのあまり目を見開いた。
「ち、違います」
「違わないだろ? 実際急に態度を変えたじゃないか」
「それは……」
 そもそも啓人が、これからは名前で呼ぶなと、もう他人なんだからと距離を置くように言ったのに。彼は自分の発言を忘れてしまったのだろうか。
(たしかに頑(かたく)なになっているのはあるけど)
 まだほかの同僚と同じようには振る舞えない。
 でも彼は千尋の心情など気にしていないのだ。
 そしていまだ自分の思い通りに動かそうとしている。
 最終的には千尋が彼の言いなりになると考え、当然のように、以前と同じ対応を求めてくる。
(あんなひどいことをされて、すぐに普通になんてできるわけがないのに!)
「わ、私に付きまとわれてるって、みんなに嘘を言ったよね? 今までと同じ態度を取るなんて無理だよ」
 本音をこぼすと、啓人が馬鹿にしたように笑った。
「ああ、それで怒ってるのか。でも嘘じゃないだろ?」
「え?」
「実際、ずっと俺に付きまとってたじゃないか」
 千尋は呆気にとられて、啓人を見つめた。
「ちょっと優しくしたら本気にしてさ。依存してきて迷惑だったんだよ」
「本気にしてって……啓人はそうじゃなかったの?」
 心変わりはされたが、付き合おうと告白してくれたときの気持ちは本当だった。
 そう信じていたのに、啓人はおかしそうに噴き出した。
「まさか。従順そうでなにかと都合がよさそうだと思ったから優しくしただけ。そっちが勝手に本気になっただけだろ?」
「……初めから利用しようとしてた?」
「そうだって言ってるだろ。あ、お前の部屋にある俺の荷物は全部捨てていいから。思い出に取っておくのはやめろよ。それこそストーカーになるぞ」
 呆然つぶやいた千尋をさらに痛めつけるように、啓人がささやく。
 千尋は反論する気力も出せずに、うつむいた。
 従順そうで都合がよさそう。頭の中で啓人の言葉がリピートする。
(初めからずっと騙されていて、都合よく利用されてた? 啓人に大切にされていると思っていたのは、私の思い込みだったの?)
 幸せだと信じていた日々の思い出が、ガラガラと崩れ落ちていく。
 空虚感にさいなまれていたとき「千尋!」と呼びかける声がした。
 はっとして声の方に目を向けると、出入口に文美の姿があった。いつものように昼食に誘いに来てくれたのだろう。
 文美が千尋のもとにやって来たが、少し距離を空けて立ち止まる。啓人に「お疲れ」と短く声をかけてから、千尋に視線を戻した。
「ごめん邪魔して。お昼行けそう?」
「あ……うん」
 遠慮がちに尋ねてくる声に千尋はうなずき、それから啓人に視線を戻した。
 彼は千尋に向けていた醜悪な笑みを見事に消し去り、代わりに穏やかな表情を浮かべていた。
「あの……休憩に行くので……」
 動揺しながらなんとかそう言うと、啓人はわずかにうなずいた。
「模型の方はどうかな?」
「……なるべく早く仕上げておきます」
 啓人が一瞬不満そうに顔をしかめた。
 しかし文美が見ているため無理強いはできないようで、本音を隠して温厚そうな笑みを浮かべる。
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