失恋したので復讐します
熱心に気持ちを伝えてくれた啓人に、もちろんオーケーの返事をしてふたりは恋人同士になった。
今から二年前の出来事だ。
それからは幸せな日々が続いた。
啓人は優しいだけでなく、気弱な千尋を引っ張ってくれる強さを持つ、頼もしく申し分がない恋人だった。
正式なプロポーズはまだされていないが、ふたりでよく将来のことを楽しく語り合った。
『結婚したら奥さんには仕事を辞めて家のことをがんばってほしいんだ。疲れて帰ってきたとき、綺麗に片づいた部屋と温かい料理があるのが理想だな』
彼には、はっきりした結婚生活のビジョンがあるようで、よくそんなことを言っていた。
千尋は家事が苦手ではないし、仕事を続けたいというこだわりもなかったので、啓人の希望に合わせるつもりでいた。
そんなふうに啓人と歩む未来を夢見ていた千尋は、彼との関係が壊れるなんて考えたこともなかったし、幸せがずっと続くと疑いなく信じていた。
実際彼が年末に向けての業務増加で多忙になるまでは、ふたりの関係は良好だったのだ。
――それなのに。
今、目の前にいる彼の表情は、千尋を拒絶するように冷ややかだ。
ふたりの間には小さなテーブルがあるだけなのに、その距離はひどく遠く感じられる。
(別れてくれって……嘘だよね?)
信じられない。なにかの冗談ではないだろうか。
(よくある罰ゲームとかじゃないのかな?)
「聞こえなかったのか?」
半ば現実逃避をしていた千尋にしびれを切らしたのか、啓人が険のある声を出した。
「き、聞こえてる。でも……」
優しかった彼のあまりの変化に、千尋は激しく動揺して視線をさまよわせる。
「でも?」
「驚いて……」
話し合いをしなくてはならない状況なのに、言葉がうまく出てこない。
なぜ、どうして。疑問が頭の中を回っている。
啓人の表情が不愉快そうに曇り、千尋はひどい焦燥感にかられた。
「あ、あのっ。私、なにか啓人を怒らせることをしたのかな?」
「……はあ」
啓人が不快そうなため息をついた。その態度は、千尋があれこれ質問するのを疎ましく感じているようでつらくなる。
「私たち仲よくしてたよね? けんかだってしていなかった。だからわからなくて」
「わからない?」
「で、でも、私に嫌なところがあるなら直すようにするから……」
だからいきなり別れるなんて言わないで考え直してほしい。そう続けようとしたけれど、最後まで言うことすら許されなかった。
「無理だから」
少しの迷いもない短い返事に、千尋の胸がずきりと痛んだ。
彼の突き放すような冷たさは、いっさい譲歩はしないという気持ちの表れのようだ。
信じがたい突然の別れが、じわじわと現実味を帯びてくる。
(どうして……どうしてこんなことになったの?)
思い返しても、彼に変わった様子はなかったと思う。
別れを言われる原因が思いつかないのだ。
けれど激しい動揺にさいなまれていたそのとき、ふと先日耳にした噂話を思い出した。
月末締めの事務処理が終わらなくて、残業をした日の帰りのことだ。
――帰宅前にひと息つきたくて、休憩スペースに立ち寄り窓際の奥まった席でコーヒーを飲んでいると、他部署の女性社員三人がやって来ておしゃべりを始めた。どうやら夕方に急なトラブルが発生し、彼女たちはその対応に追われていて、この後も残業が続くようだ。
『都市開発事業本部の辻浦さんと葛(かつら)城(ぎ)さんっていい雰囲気だよね。付き合ってるのかな?』
初めはぼんやりと聞き流していた千尋だが、〝辻浦〟の名前が出てきた瞬間はっとしてわずかに身を屈(かが)めた。
(今、啓人と葛城さんが付き合ってるって……)
千尋にとって聞き捨てならない内容だ。彼女たちの会話に耳をそばだてる。
話題にあがった葛城理(り)沙(さ)は、秋採用の新入社員だ。
新人研修を終えた十一月一日付で都市開発事業本部建築デザイン部の配属になった。
秋採用の新人は六人だが、彼女は父親が重役ということで、とくに注目を浴びている。
特別扱いなどはされていないものの、教育担当に部内で一番優秀な啓人が指名されるなど多少の忖度はあるようだと、同僚たちが話していた。
教育担当と新人という関係なので、たしかに啓人と理沙がふたりで行動する機会は多い。
しかしそれは啓人が責任感を持って後輩を指導しているからだ。
『スタートが肝心だからしっかり指導するよ。千尋もフォローしてくれたら助かる』
一カ月前に新人教育が始まったときに、千尋は啓人からそう聞いていた。
それなのにふたりの仲が誤解されているなど、啓人だけでなく理沙に対しても失礼だ。
今から二年前の出来事だ。
それからは幸せな日々が続いた。
啓人は優しいだけでなく、気弱な千尋を引っ張ってくれる強さを持つ、頼もしく申し分がない恋人だった。
正式なプロポーズはまだされていないが、ふたりでよく将来のことを楽しく語り合った。
『結婚したら奥さんには仕事を辞めて家のことをがんばってほしいんだ。疲れて帰ってきたとき、綺麗に片づいた部屋と温かい料理があるのが理想だな』
彼には、はっきりした結婚生活のビジョンがあるようで、よくそんなことを言っていた。
千尋は家事が苦手ではないし、仕事を続けたいというこだわりもなかったので、啓人の希望に合わせるつもりでいた。
そんなふうに啓人と歩む未来を夢見ていた千尋は、彼との関係が壊れるなんて考えたこともなかったし、幸せがずっと続くと疑いなく信じていた。
実際彼が年末に向けての業務増加で多忙になるまでは、ふたりの関係は良好だったのだ。
――それなのに。
今、目の前にいる彼の表情は、千尋を拒絶するように冷ややかだ。
ふたりの間には小さなテーブルがあるだけなのに、その距離はひどく遠く感じられる。
(別れてくれって……嘘だよね?)
信じられない。なにかの冗談ではないだろうか。
(よくある罰ゲームとかじゃないのかな?)
「聞こえなかったのか?」
半ば現実逃避をしていた千尋にしびれを切らしたのか、啓人が険のある声を出した。
「き、聞こえてる。でも……」
優しかった彼のあまりの変化に、千尋は激しく動揺して視線をさまよわせる。
「でも?」
「驚いて……」
話し合いをしなくてはならない状況なのに、言葉がうまく出てこない。
なぜ、どうして。疑問が頭の中を回っている。
啓人の表情が不愉快そうに曇り、千尋はひどい焦燥感にかられた。
「あ、あのっ。私、なにか啓人を怒らせることをしたのかな?」
「……はあ」
啓人が不快そうなため息をついた。その態度は、千尋があれこれ質問するのを疎ましく感じているようでつらくなる。
「私たち仲よくしてたよね? けんかだってしていなかった。だからわからなくて」
「わからない?」
「で、でも、私に嫌なところがあるなら直すようにするから……」
だからいきなり別れるなんて言わないで考え直してほしい。そう続けようとしたけれど、最後まで言うことすら許されなかった。
「無理だから」
少しの迷いもない短い返事に、千尋の胸がずきりと痛んだ。
彼の突き放すような冷たさは、いっさい譲歩はしないという気持ちの表れのようだ。
信じがたい突然の別れが、じわじわと現実味を帯びてくる。
(どうして……どうしてこんなことになったの?)
思い返しても、彼に変わった様子はなかったと思う。
別れを言われる原因が思いつかないのだ。
けれど激しい動揺にさいなまれていたそのとき、ふと先日耳にした噂話を思い出した。
月末締めの事務処理が終わらなくて、残業をした日の帰りのことだ。
――帰宅前にひと息つきたくて、休憩スペースに立ち寄り窓際の奥まった席でコーヒーを飲んでいると、他部署の女性社員三人がやって来ておしゃべりを始めた。どうやら夕方に急なトラブルが発生し、彼女たちはその対応に追われていて、この後も残業が続くようだ。
『都市開発事業本部の辻浦さんと葛(かつら)城(ぎ)さんっていい雰囲気だよね。付き合ってるのかな?』
初めはぼんやりと聞き流していた千尋だが、〝辻浦〟の名前が出てきた瞬間はっとしてわずかに身を屈(かが)めた。
(今、啓人と葛城さんが付き合ってるって……)
千尋にとって聞き捨てならない内容だ。彼女たちの会話に耳をそばだてる。
話題にあがった葛城理(り)沙(さ)は、秋採用の新入社員だ。
新人研修を終えた十一月一日付で都市開発事業本部建築デザイン部の配属になった。
秋採用の新人は六人だが、彼女は父親が重役ということで、とくに注目を浴びている。
特別扱いなどはされていないものの、教育担当に部内で一番優秀な啓人が指名されるなど多少の忖度はあるようだと、同僚たちが話していた。
教育担当と新人という関係なので、たしかに啓人と理沙がふたりで行動する機会は多い。
しかしそれは啓人が責任感を持って後輩を指導しているからだ。
『スタートが肝心だからしっかり指導するよ。千尋もフォローしてくれたら助かる』
一カ月前に新人教育が始まったときに、千尋は啓人からそう聞いていた。
それなのにふたりの仲が誤解されているなど、啓人だけでなく理沙に対しても失礼だ。