失恋したので復讐します
 担当者がほっとしたような笑顔になった。
「い、いえ……」
 千尋はぺこりと頭を下げてから自席に戻る。そのとき、穂高がこちらを見ていることに気が付いた。
 どこか心配そうな表情だった彼は、目が合うと僅かに微笑んでくれたので、千尋も笑顔を返した。
(相川君、気にしてくれていたのかな? それにしても思ったより喜んでもらえてよかった)
 あんなに感謝してくれるとは思っていなかった。
 役に立てたようでうれしい。同時にこんなに簡単なことだったのだと戸惑いを感じていた。
 今まで気づかなかったわけではない。ただ自分の担当と言えるか微妙なことに口出しをするのは差し出がましいかなと思い込んでいたのだ。
(いや、単になにも考えてなかっただけかも)
 深く考えていないから、後で大変になるとわかっているのに、頼まれてからやればいいという消極的な姿勢だった。
 これからは仕事だけでなく何事ももっと深く考える癖をつけよう。
 そして浅はかな自分とはさよならするのだ。
 千尋は決意を新たにしたのだった。

 その後、部長から明日の会議資料の作成を頼まれたため、残業をすることになった。
 年末に向けて忙しい時期なので、社員の半分くらいはまだ残っている。穂高は定時で帰って行った。今頃アウロラで客の相手をしているのかもしれない。
 千尋は二時間ほどで資料を仕上げると、パソコンの電源を落として席を立った。
 女子トイレに向かいながら、これからの予定を考える。
(ジムに行くつもりだったけどもう八時だしなあ……)
 体力的にも少し厳しい。真っすぐ帰ってサラダでも食べて今日はゆっくり休もうか。
 トイレのドアを開いた千尋は、ぎくりとして足を止めた。
 鏡の前に葛城理沙がいたからだ。
 相変わらず綺麗な人だと思った。
 千尋よりも一〇センチ近く身長が高いのに、顔はひと回り小さくて、肌は陶器のように滑らかで美しい。黒目がちな大きな目に、すっとした高い鼻。自分と同じ表現とは思えない。
(こんなに綺麗で若くて重役令嬢だなんて、私とは別世界の人みたい)
 化粧直しの途中だったのか、ほっそりした指でファンデーションのケースを持っている。
 そんな彼女は千尋に気づくと、わずかに顔を曇らせた。
「……お疲れさまです」
 挨拶はしてくれたが、声に冷たさを感じる。
「お疲れさまです」
 千尋はぺこりと頭を下げてから、理沙から少し離れた位置に立ちバッグから櫛(くし)を取り出した。
 非常に気まずくて本当はすぐに立ち去りたいくらいだが、なにもしないまま出るのは不自然だろう。感じが悪いし、きっと避けたと思われる。
 少し乱れた髪に櫛を通していく。
 理沙の方に目を向けないようにしているが、気にせずにはいられない。
 啓人のことで恨んでいるわけじゃない。
 それでも彼女に対して気まずさは感じるから、なるべく関わらない方がいいと思っていた。
 ところが先ほどからやけに視線を感じる。
(どうしてこっちを見てるんだろう……やっぱり辻浦君がなにか言ったのかな。それとも付きまといのこと?)
 理沙の反応からよく思われていないのは間違いないだろう。
 啓人と理沙が今どんな関係なのか……もう恋人同士になったのかはわからない。
 でもふたりはいつも一緒にいるし、とても気が合っているように見える。
(別にふたりが付き合ってもいいけど。そうなるのはわかってたんだし)
 そう強がってみるものの、気持ちが重くなる。
 啓人が好きで嫉妬しているのとは違う。捨てられた痛みが胸の奥でくすぶっているのだ。
 千尋は不自然にならない程度に急ぎ、身支度を終えてトイレを出ようとする。そのとき声をかけられた。
「山岸さん、少しいいですか?」
 振り向くと、理沙が浮かない表情で千尋を見すえている。
「……ごめんね、ちょっと急いでいてあまり時間がないんだけど」
 やんわりと断ろうとしたが、理沙は「少し聞きたいことがあるだけなので、すぐ済みます」と用件を話し始めた。
「辻浦さんから聞きました。彼にしつこく付きまとっていたそうですね。彼からはっきりやめてくれと言われたそうですけど」
 千尋の鼓動が大きく跳ねた。
「あ、あの……」
 まさかこんなにストレートに文句を言われるとは思わなかったから動揺してしまう。
「山岸さんとしては突き放されるのは不本意だったのかもしれませんけど、その不満を仕事に持ち込むのはよくないと思います」
「え……なんのこと?」
 たしかに啓人に対して大きな不満を持っているが、仕事に私情を挟んではいない。
 私情を挟んでいたのは、むしろ付き合っていた頃の方だ。
 どんなときも啓人を優先して、ひいきしていたのだから。
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