失恋したので復讐します
「辻浦のデマのせいで、しばらくは気まずい思いをするだろうけど、そのうち落ち着くだろうから気を強く持つんだよ」
 文美が千尋を励ますように言う。
「文美は啓人じゃなくて私を信じてくれるんだね」
「当然でしょ。私からも辻浦の話には誤解があるって周りの人には話すから」
「ありがとう」
 啓人よりも千尋を信じてくれる友人の存在が心強くありがたくて、沈んでいた気持ちが少しだけ和んだ気がした。

 休憩時間が終わり、午後の業務がスタートした。
 文美から事情を聞いたせいか、午前中よりも同僚たちの視線が怖く感じる。
 もしミスをしたら、やっぱりあいつは駄目だと言われてしまいそうで、萎縮してしまう。
 そんな中、まったく悪びれた様子がない啓人が、生き生き働く姿を見ていると、やるせなさがこみ上げた。

 精神の不安定さが仕事に現れたのかミスを連発し、結局その後始末で二時間も残業をする羽目になってしまった。
 啓人は絶好調のようで、とっくに退勤したようだ。
 なんとか今日の業務を終えた千尋は、パソコンの電源を落として席を立ちフロアを出て、廊下の先にある女子トイレに向かった。
 鏡に映る顔はひどいものだった。ため息をこぼしてから個室に入る。
 ひとりきりの空間にほっとしたそのとき、複数の足音が近づいてきた。
「あー疲れた。十二月ってやること多すぎ~」
「早く休みになってほしいよね」
 千尋と同様残業をしていたのだろうか。彼女たちは個室が使用中なのも気にせず、おしゃべりを始める。
「辻浦さんと山岸さんの話聞いた?」
 千尋の心臓がどくんと大きく跳ねた。
「うん、なんか山岸さんが辻浦さんに付きまとってたって。あんなにおとなしそうな人が意外だよね」
「それだけ思いつめてたってことかな。辻浦さんかっこいいもんね」
「好きになったけど相手にされなかったんじゃない? あの人辻浦さんとは全然釣り合わないし。ふられて逆恨みして付きまとってるのかも」
 そう言った女性社員の声には、どこか馬鹿にしたような響きがあった。
「それはないんじゃない? 前に仕事で関わったことがあるけど、穏やかでいい人そうだったよ」
 答える声は戸惑いが滲(にじ)んでいるようだ。
「穏やかっていうより、いてもいなくてもわからないくらい存在感がないよね。同じ部の子に聞いたけど、仕事の要領も悪いのか、やたらと残業しているみたい。やってる内容は誰でもできるような雑用ばっかりなんだって。新人ならそれでいいけどあの人ってもう三十くらいでしょ?」
「たしかそれくらいだったと思うけど」
「中堅社員になるのにろくに仕事も任せてもらえない。プライベートではふられた相手に付きまとって迷惑をかけるなんて終わってるよね仕事ができないだけじゃなくて、性格がねじ曲がってる。だから誰にも好かれないんだよ」
「ちょっと、言いすぎ!」
 これでもかというほど千尋の駄目出しを続ける女性社員を、もう一方の女性が慌てて窘(たしな)める声がする。
 しかし効果はないようだ。
「これくらい言ってもいいでしょ。実際辻浦さんは迷惑をかけられてるんだから。それに辻浦さんには、葛城さんくらいハイスペックじゃないと釣り合わないよ」
「たしかに辻浦さんと葛城さんは合うと思う。よく一緒にいるよね」
「うん。すごく仲がよさそう。付き合うのは時間の問題かな? エリートと重役令嬢だから結婚もあるかもね」
 千尋がショックで固まっている間も、おしゃべりは続いた。
 それから五分後。人がいなくなったことを確認して、千尋はそっと個室から出た。
 うつむきがちに足早に廊下を歩き、ちょうど止まっていたエレベーターに乗り込んだ。

 今聞いた言葉が頭から離れない。
 基本的にはあまりくよくよしない千尋だが、先日から続くショックな出来事に加えて先ほどの心ない言葉はさすがにこたえてしまった。
 ぐさりと心に突き刺さった言葉が全身をむしばんでいるようで、気持ちを立て直すことなんてできそうにない。
 ぼんやりしたまま、目的もなく街を歩く。
 いつもなら、ひとり暮らしをしている1DKのアパートに真っすぐ帰宅して、簡単な夕食を作り、動画を見ながら食事をするところだが、とてもそんな気にはなれなかった。
 もうなにもかも駄目だと、ひどく投げやりな気持ちになっている。
 このまま消えてしまいたい。どこか遠くに行きたい。
 そんな中、とあるダイニングバーの看板が視界に入った。

【アウロラ】

 どこの言葉だろうか。千尋にはわからない。
 こぢんまりしてなかなか品がいい外観だが、窓はなく片開きの扉は木炭のような黒。
 中の様子をうかがうことができないため、入るのにためらいを覚える造りだ。
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