明日からちゃんと嫌いになるから
車内には再び沈黙が訪れるが、そう長い時間ではなかった。通りで降ろしてもらうと、泉は本当にはいもしない彼氏に会うつもりらしく、タクシーを帰して六花についてくる。
「ここだよ……」
新しく綺麗だが、特別ではないごく普通のワンルームマンション。その一室に案内したら、六花の企みはあっさり終了となる。
「真っ暗だ……」
解錠し扉を開けると、部屋のあかりはついておらず誰もいないことがわかったはず。
「そうだね……」
パンプスを脱いで電気をつけた六花がくすっと笑うと、泉は不愉快そうに睨んできた。
「まさか、騙したのか?」
カッと彼の表情が強い怒りへと変わっていく。本当はそれに怯えていた六花だったが、気力を振り絞って正面を見据える。
「さっきは絡まれて面倒だから、そう答えただけ」
「じゃあ、全部嘘ってことでいいんだな? ならどうして俺にまで……」
「ちょっとした腹いせだよ。あと……これもね」
ここまでついてきた泉がいけない。
その理由が両親への義理立てと、かつて親しかった女の子への捨てたはずの責任感からだったとしても。
玄関と廊下の、十センチの段差を利用すれば、彼との身長差は半分うまる。踵を上げて、泉のネクタイをひっぱれば……ほら。六花は彼と同じものを見て、同じものに触れることだってできる。
思い知らせたくて、無理矢理、唇にキスをした。
情緒もなにもなく、瞼さえ閉じなかったから……触れ合った瞬間に泉の目が大きく見開かれているのがわかった。
その瞳に映るのは、六花ただ一人だ。
「……やめろ!」
泉に拒否され引き離されるまでのほんの一秒か二秒。確かに六花は泉を独占できた。
汚らわしいと唇を拭った泉の姿をなるべく見ないようにして、ぽつりとつぶやく。
「いっちゃん、……私ね、もうすぐお見合いするんだ。……よかったね? 嬉しい?」
うつむきながら自虐的な笑みを浮かべるが、もう顔を上げることすらできない。
「先週、誰もそんなこと言ってなかったじゃないか」
先週の日曜日、泉は宮下家の家族と一緒に食事をしている。同僚に目撃された日のことだが、あの日は継母の誕生日のお祝いだった。
「二人とも、縁談がまとまったわけではないから……って思って話題にしなかったんじゃないのかな?」
「…………相手は?」
「お父さんが決めた人。優秀なお医者様だって。これは本当の話」
「…………」
それっきり、泉は黙り込んでいた。
「おめでとうって、言ってくれないの?」
「だったら、おまえは今なんで泣いてる?」
まだ涙は零れていないはず。それに歪んで醜くなった顔は見せないようにしている。
泣いてなんてない。どうせ泣いたって、彼がどうにかしてくれるわけではないのだから。
六花はお見合いのことは最初から受け入れている。父が決めてくれた完璧な相手だ。不満はない。ただ、少女時代に思い描いていたような未来がやってこなかったことが、ほんの少し悲しいだけ。
「もう、いいよ。もう大丈夫。……もう私はあなたのことなんて、まったく好きじゃないから」
六花が父と約束した自由な時間は三年だった。
三年間、外の世界で自由に過ごしてみたいと。このままじゃ世間知らず一直線だからと言って説得したのだ。
そしてそのあとは、父が六花のために考えてくれた、幸せになるための正しいレールに戻ると約束していた。来年の春には結婚して、退社することになる。今度のお見合いはその準備だ。
「六花……」
名前を呼ばれたのは、久しぶりな気がする。なんて優しく響くのだろう。
「送ってくれてありがとうございました。……泉さん」
六花は泉の顔を見ないまま、その胸を押した。それから、彼に背を背けて部屋の中に入る。
しばらくすると、泉が扉から出ていった音が聞こえた。ガチャンと扉が閉った瞬間から、六花は酷い孤独に襲われる。
好きな人とはじめてキスをしたらどんな気持ちになるのか? 長い間想像していたことが、今現実となった。
はじめてのキスのあとに襲ってきたのは、耐えがたいほどの虚しさだった。
「ここだよ……」
新しく綺麗だが、特別ではないごく普通のワンルームマンション。その一室に案内したら、六花の企みはあっさり終了となる。
「真っ暗だ……」
解錠し扉を開けると、部屋のあかりはついておらず誰もいないことがわかったはず。
「そうだね……」
パンプスを脱いで電気をつけた六花がくすっと笑うと、泉は不愉快そうに睨んできた。
「まさか、騙したのか?」
カッと彼の表情が強い怒りへと変わっていく。本当はそれに怯えていた六花だったが、気力を振り絞って正面を見据える。
「さっきは絡まれて面倒だから、そう答えただけ」
「じゃあ、全部嘘ってことでいいんだな? ならどうして俺にまで……」
「ちょっとした腹いせだよ。あと……これもね」
ここまでついてきた泉がいけない。
その理由が両親への義理立てと、かつて親しかった女の子への捨てたはずの責任感からだったとしても。
玄関と廊下の、十センチの段差を利用すれば、彼との身長差は半分うまる。踵を上げて、泉のネクタイをひっぱれば……ほら。六花は彼と同じものを見て、同じものに触れることだってできる。
思い知らせたくて、無理矢理、唇にキスをした。
情緒もなにもなく、瞼さえ閉じなかったから……触れ合った瞬間に泉の目が大きく見開かれているのがわかった。
その瞳に映るのは、六花ただ一人だ。
「……やめろ!」
泉に拒否され引き離されるまでのほんの一秒か二秒。確かに六花は泉を独占できた。
汚らわしいと唇を拭った泉の姿をなるべく見ないようにして、ぽつりとつぶやく。
「いっちゃん、……私ね、もうすぐお見合いするんだ。……よかったね? 嬉しい?」
うつむきながら自虐的な笑みを浮かべるが、もう顔を上げることすらできない。
「先週、誰もそんなこと言ってなかったじゃないか」
先週の日曜日、泉は宮下家の家族と一緒に食事をしている。同僚に目撃された日のことだが、あの日は継母の誕生日のお祝いだった。
「二人とも、縁談がまとまったわけではないから……って思って話題にしなかったんじゃないのかな?」
「…………相手は?」
「お父さんが決めた人。優秀なお医者様だって。これは本当の話」
「…………」
それっきり、泉は黙り込んでいた。
「おめでとうって、言ってくれないの?」
「だったら、おまえは今なんで泣いてる?」
まだ涙は零れていないはず。それに歪んで醜くなった顔は見せないようにしている。
泣いてなんてない。どうせ泣いたって、彼がどうにかしてくれるわけではないのだから。
六花はお見合いのことは最初から受け入れている。父が決めてくれた完璧な相手だ。不満はない。ただ、少女時代に思い描いていたような未来がやってこなかったことが、ほんの少し悲しいだけ。
「もう、いいよ。もう大丈夫。……もう私はあなたのことなんて、まったく好きじゃないから」
六花が父と約束した自由な時間は三年だった。
三年間、外の世界で自由に過ごしてみたいと。このままじゃ世間知らず一直線だからと言って説得したのだ。
そしてそのあとは、父が六花のために考えてくれた、幸せになるための正しいレールに戻ると約束していた。来年の春には結婚して、退社することになる。今度のお見合いはその準備だ。
「六花……」
名前を呼ばれたのは、久しぶりな気がする。なんて優しく響くのだろう。
「送ってくれてありがとうございました。……泉さん」
六花は泉の顔を見ないまま、その胸を押した。それから、彼に背を背けて部屋の中に入る。
しばらくすると、泉が扉から出ていった音が聞こえた。ガチャンと扉が閉った瞬間から、六花は酷い孤独に襲われる。
好きな人とはじめてキスをしたらどんな気持ちになるのか? 長い間想像していたことが、今現実となった。
はじめてのキスのあとに襲ってきたのは、耐えがたいほどの虚しさだった。