キスは契約違反です!! ~年下御曹司と期間限定ルームシェア~
 エコバッグを提げて、帰宅した。夕食の支度をしていると、如月くんも帰ってきた。うちの会社での引き継ぎを昨日終わらせて退職した如月くんは、今日から完全に、東雲リゾートの社長代理だ。

 社内の噂話は、「実は御曹司だった如月くんの、一途な純愛」という方向で着地した。私に向けられていた野次馬的な好奇は、ショーウィンドウに飾られたモノグラムのバッグを眺めるような、遠巻きな羨望に変わった。

 私は、「幸せの絶頂」「勝ち組」「ドラマ展開」「玉の輿」――等々。いろんな言い方で、最高の幸せを掴んだヒロインというカテゴリーに嵌め込まれた。

 だけど――。

 あ、と小さく声をあげた。お肉を切った包丁を洗っていたとき。
 肘まで折り曲げていたシャツの袖が、手首のあたりまで下がってきたから。

 手首や腕を上手く使って、袖を肘まで戻すつもりだった。

 けれど、ちょうどキッチンへやってきた如月くんが、何も言わずに手を伸ばしてきた。

 帰宅してすぐだから、まだワイシャツとスラックス姿。当たり前みたいに私の後ろに立って、まるで抱きしめるみたいな体勢で、私の袖を折る。

 ウッディの重たいラストノートが揺らめく。ネクタイを外した襟元、そこから覗く鎖骨が――近い。

「……あ、」

 と、如月くんははたと気づいたように私から離れた。
 ばつが悪そうな顔で、彼がおずおずと問う。

「今のは、契約違反じゃないですか」

 私は、彼のほうから眼差しを背けて、

「……大丈夫」

 と、短く答えた。

 よかった、と如月くんが呟く。私は洗い物を再開する。

 ありがとう、を言いそびれたと後から気づく。

 ふつふつと煮立つポトフをかき混ぜながら、私を愛さないと言った如月くんの面差しを思い出す。

 私たちの関係は、契約上の婚約者。エンゲージリングは、それをもっともらしく見せるために、わざと選んだわかりやすいシンボル。私たちの本当の関係はルームメイト。

 また恋をするのは怖いと泣いた私が、彼と締結した契約の主文。

 彼は私を愛さない。
 愛する、に近しい行為も行わない。
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