一途すぎて捨てられた令嬢、辺境で溺愛されて家族も未来も手に入れました
朝の陽射しが、公爵家の広い食堂にゆっくりと差し込んでいた。
磨き上げられた大理石の床には、窓越しの光が幾筋もの帯を描き、淡い金色の波紋のように揺れている。
長く磨かれたテーブルの上には、銀の食器が整然と並び、クロッシュの下には香ばしいパンとハーブを添えたスープ、季節の果実が美しく盛られていた。
まるで王家の晩餐のような朝食だった。
けれどその中央に座るのは、公爵令嬢カノンティア――ではなく、妹のセレナーデだった。
「セレナーデ、今日もなんと可憐なのだ」
重厚な声で父が笑う。
母は嬉しげに頷きながら、焼きたてのパンをそっと口に運んだ。
「まあ、お父様ったら。そんなに褒められたら、恥ずかしいですわ」
頬を染めたセレナーデが微笑むと、窓から差し込む光までが柔らかくなるようだった。
金の巻き髪に白いドレス。指先の仕草ひとつさえ、花のように優雅だ。
その姿に、侍女たちが目を細め、空気が温まっていく。
その対面に座るカノンティアは、静かにフォークを手に取った。
冷めたスープの表面には、彼女の顔が淡く映っている。
誰も彼女に声をかけない。
まるで、そこに“存在しない者”として扱われているかのように。
「カノンティア、貴女も笑いなさいな。王太子殿下の婚約者でありながら、そんな顔をしていたら誤解されてしまうわ」
母の軽やかな声が、薄い刃のように響いた。
「……申し訳ありません。眠れなかったもので」
「まあ、それはよろしくないわね。セレナーデを見習って、もっと明るく過ごさなければ」
食卓に漂う香ばしいバターの匂いも、彼女には遠い世界のものだった。
笑い声が続くほどに、その輪の中心からカノンティアは静かに押し出されていく。
微笑みの下に潜む温度のない空気。
それがこの家の“常”だった。
幼い頃から、ずっとそうだった。
妹の方が愛され、誉められ、望まれた。
「お姉様は立派ね、でも、可愛いのはセレナーデ」
その言葉を、何度聞いたか、もう数え切れない。
努力しても、結果を出しても――可愛げがないと言われるだけ。
婚約者という立場を得ても、家族の目には「役目を果たす者」にすぎなかった。
「殿下は今夜もお出ましになるのかしら?」
母が楽しげに問いかけると、セレナーデは嬉しそうに頷いた。
「ええ。父上がお招きした晩餐に、殿下もご出席されるそうですの」
「まぁ、それは素敵ね。あなたのドレスは、先日仕立てた薔薇色のものにしなさい。殿下はきっと気に入るわ」
――薔薇色のドレス。
それは、婚約発表の折に殿下がカノンティアへ贈った布地で仕立てたものだった。
胸の奥に、ひそやかな痛みが走る。
だが、唇を噛んでも涙はこぼさない。
泣けば、弱いと見なされるだけだ。
この家で生きるためには、心を閉ざすしかなかった。
朝食が終わると、カノンティアはひとり温室の奥にある書斎へと歩いた。
廊下には花の香が漂い、遠くで妹と母の笑い声が響いている。
その音が背後に遠ざかるほど、胸の中の空洞が広がっていく気がした。
書斎の机の上には、数年前――婚約の証として殿下から贈られた青いリボンが置かれている。
陽光を受けて淡く光るその色は、まるで空の一部を閉じ込めたように清らかだった。
あの日、彼が微笑みながら言った言葉を、今も鮮明に覚えている。
「君の努力は、必ず報われる。私はそれを信じている」
あの優しい声を信じてきた。
だが、時の流れは残酷で――いま殿下の目に映るのは、いつも妹の笑顔ばかり。
「……殿下。わたくし、まだ貴方の隣に、胸を張って立てていませんわね」
小さく呟くその声は、かすかに震えていた。
けれど、不思議と穏やかでもあった。
痛みに慣れてしまえば、それは静かな波になる。
窓の外には、初夏の庭が広がっている。
白薔薇が風に揺れ、光の粒が花弁に舞う。
蝶がひらりと飛び交うその景色は、あまりにも美しく、残酷だった。
その世界の中で、カノンティアだけが色を持たない存在のように思えた。
「お嬢様、午後から王立舞踏会の最終練習がございます。ご準備を」
侍女の声が静けさを破る。
「……ええ。ありがとう」
椅子を離れ、鏡の前に立つ。
薄い唇、透き通るような白い肌、金糸の髪。
誰もが「美しい」と称えるその姿。
けれど鏡の奥の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
その瞳に宿るのは、孤独と、わずかな誇り。
(どうして……誰も見てくれないのだろう)
(婚約者であるわたくしより、妹に微笑むその理由は――何?)
答えのない問いが、胸の奥で静かに渦を巻く。
その時、不意に記憶の底から――少年の笑顔が浮かんだ。
――「君の笑った顔、花が咲くみたいだ」
あの頃、まだ世界はやさしかった。
彼――ユリウスだけは、何の打算もなく微笑んでくれた。
身分も立場も関係なく、ただ「カノンティア」という一人の人間を見てくれた。
誰も褒めてくれなくても、誰も気づかなくても。
あの言葉だけは、彼女の中でずっと生きていた。
「……いつか、わたくしも笑える日が来るのかしら」
吐息のようにこぼれた声は、ガラス窓に淡く触れて消えた。
その指先には、青いリボン。
そして、心の奥底では――
婚約者としての責務と、誰にも見せぬ痛み、そしてまだ消えぬ小さな希望が、静かに息づいていた。
磨き上げられた大理石の床には、窓越しの光が幾筋もの帯を描き、淡い金色の波紋のように揺れている。
長く磨かれたテーブルの上には、銀の食器が整然と並び、クロッシュの下には香ばしいパンとハーブを添えたスープ、季節の果実が美しく盛られていた。
まるで王家の晩餐のような朝食だった。
けれどその中央に座るのは、公爵令嬢カノンティア――ではなく、妹のセレナーデだった。
「セレナーデ、今日もなんと可憐なのだ」
重厚な声で父が笑う。
母は嬉しげに頷きながら、焼きたてのパンをそっと口に運んだ。
「まあ、お父様ったら。そんなに褒められたら、恥ずかしいですわ」
頬を染めたセレナーデが微笑むと、窓から差し込む光までが柔らかくなるようだった。
金の巻き髪に白いドレス。指先の仕草ひとつさえ、花のように優雅だ。
その姿に、侍女たちが目を細め、空気が温まっていく。
その対面に座るカノンティアは、静かにフォークを手に取った。
冷めたスープの表面には、彼女の顔が淡く映っている。
誰も彼女に声をかけない。
まるで、そこに“存在しない者”として扱われているかのように。
「カノンティア、貴女も笑いなさいな。王太子殿下の婚約者でありながら、そんな顔をしていたら誤解されてしまうわ」
母の軽やかな声が、薄い刃のように響いた。
「……申し訳ありません。眠れなかったもので」
「まあ、それはよろしくないわね。セレナーデを見習って、もっと明るく過ごさなければ」
食卓に漂う香ばしいバターの匂いも、彼女には遠い世界のものだった。
笑い声が続くほどに、その輪の中心からカノンティアは静かに押し出されていく。
微笑みの下に潜む温度のない空気。
それがこの家の“常”だった。
幼い頃から、ずっとそうだった。
妹の方が愛され、誉められ、望まれた。
「お姉様は立派ね、でも、可愛いのはセレナーデ」
その言葉を、何度聞いたか、もう数え切れない。
努力しても、結果を出しても――可愛げがないと言われるだけ。
婚約者という立場を得ても、家族の目には「役目を果たす者」にすぎなかった。
「殿下は今夜もお出ましになるのかしら?」
母が楽しげに問いかけると、セレナーデは嬉しそうに頷いた。
「ええ。父上がお招きした晩餐に、殿下もご出席されるそうですの」
「まぁ、それは素敵ね。あなたのドレスは、先日仕立てた薔薇色のものにしなさい。殿下はきっと気に入るわ」
――薔薇色のドレス。
それは、婚約発表の折に殿下がカノンティアへ贈った布地で仕立てたものだった。
胸の奥に、ひそやかな痛みが走る。
だが、唇を噛んでも涙はこぼさない。
泣けば、弱いと見なされるだけだ。
この家で生きるためには、心を閉ざすしかなかった。
朝食が終わると、カノンティアはひとり温室の奥にある書斎へと歩いた。
廊下には花の香が漂い、遠くで妹と母の笑い声が響いている。
その音が背後に遠ざかるほど、胸の中の空洞が広がっていく気がした。
書斎の机の上には、数年前――婚約の証として殿下から贈られた青いリボンが置かれている。
陽光を受けて淡く光るその色は、まるで空の一部を閉じ込めたように清らかだった。
あの日、彼が微笑みながら言った言葉を、今も鮮明に覚えている。
「君の努力は、必ず報われる。私はそれを信じている」
あの優しい声を信じてきた。
だが、時の流れは残酷で――いま殿下の目に映るのは、いつも妹の笑顔ばかり。
「……殿下。わたくし、まだ貴方の隣に、胸を張って立てていませんわね」
小さく呟くその声は、かすかに震えていた。
けれど、不思議と穏やかでもあった。
痛みに慣れてしまえば、それは静かな波になる。
窓の外には、初夏の庭が広がっている。
白薔薇が風に揺れ、光の粒が花弁に舞う。
蝶がひらりと飛び交うその景色は、あまりにも美しく、残酷だった。
その世界の中で、カノンティアだけが色を持たない存在のように思えた。
「お嬢様、午後から王立舞踏会の最終練習がございます。ご準備を」
侍女の声が静けさを破る。
「……ええ。ありがとう」
椅子を離れ、鏡の前に立つ。
薄い唇、透き通るような白い肌、金糸の髪。
誰もが「美しい」と称えるその姿。
けれど鏡の奥の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
その瞳に宿るのは、孤独と、わずかな誇り。
(どうして……誰も見てくれないのだろう)
(婚約者であるわたくしより、妹に微笑むその理由は――何?)
答えのない問いが、胸の奥で静かに渦を巻く。
その時、不意に記憶の底から――少年の笑顔が浮かんだ。
――「君の笑った顔、花が咲くみたいだ」
あの頃、まだ世界はやさしかった。
彼――ユリウスだけは、何の打算もなく微笑んでくれた。
身分も立場も関係なく、ただ「カノンティア」という一人の人間を見てくれた。
誰も褒めてくれなくても、誰も気づかなくても。
あの言葉だけは、彼女の中でずっと生きていた。
「……いつか、わたくしも笑える日が来るのかしら」
吐息のようにこぼれた声は、ガラス窓に淡く触れて消えた。
その指先には、青いリボン。
そして、心の奥底では――
婚約者としての責務と、誰にも見せぬ痛み、そしてまだ消えぬ小さな希望が、静かに息づいていた。