一途すぎて捨てられた令嬢、辺境で溺愛されて家族も未来も手に入れました
王都の夜は、宝石のように輝いていた。
満月が蒼白い光を投げ、王宮の塔を金色に縁取る。噴水の水面には、無数の星が踊り、その光が揺らめきながら夜気に溶けていく。
その中心――王立舞踏会の会場となる大広間では、絢爛たる光と音と香りが渦を巻いていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、幾千ものクリスタルを散らし、床に虹色の反射を描く。
壁を覆う絹のカーテンは金糸で刺繍され、風にわずかに揺れて、まるで生き物のように光をはらむ。
音楽隊の奏でる弦と管の旋律、香水と花々の混じり合う香り、そして貴族たちの笑声――そのすべてが、夢と現実の境を曖昧にしていた。
今宵は王太子主催の舞踏会。
――王太子レオンハルト殿下が、正式に婚約者カノンティア・アークライトを伴って入場する夜。
控室では、カノンティアが鏡の前に立っていた。
大理石の床に映る自分の姿を見つめながら、侍女がドレスの裾をそっと整える。
淡い水色のドレスは、月光を溶かしたような光沢を放ち、胸元には王妃陛下より賜った月光石のネックレスが淡く揺れた。
「……きっと大丈夫。殿下は、わたくしの努力を見てくださっている」
震える唇で自分に言い聞かせ、深く息を吸う。
背筋を伸ばすと、緊張で胸の奥が痛むほど鼓動を打った。
(今夜こそ、わたくしが皆の前で――婚約者としての誇りを示すのだ)
扉の外から、トランペットの高らかな音が響いた。
会場の灯が一斉に明るくなり、注目が集まる。
白い階段の上に現れたその人――王太子レオンハルト。
陽光を閉じ込めたような金髪、氷を溶かすような碧眼。整った容姿と威厳を備えたその姿は、まるで神話の英雄だった。
けれど、その腕に寄り添う人影を見た瞬間、カノンティアの心臓が跳ね上がった。
「……セレナーデ?」
そこにいたのは、柔らかな桃色のドレスを纏った妹だった。
花のように可憐な笑みを浮かべ、殿下の腕に軽く身を預けている。
ざわめきが広間を満たす。人々の視線が二人に吸い寄せられ、ため息や歓声が混じり合う。
(そんなはずはない……わたくしの隣に立つのは、殿下の隣に立つのは――)
「本日の主賓――王太子レオンハルト殿下、そしてセレナーデ・アークライト嬢のご入場である!」
司会の声が響き渡った瞬間、カノンティアの足元から世界が傾いた。
空気が遠のく。
耳鳴りの中、笑い声と拍手だけが、どこか遠い世界の音のように聞こえた。
(なぜ……殿下、どうして……?)
音楽が始まり、二人は中央へ進み出る。
殿下の手に導かれ、セレナーデが軽やかに回る。その金髪が光を受け、花弁のように揺れる。
人々の目には、まさに“新しい時代を象徴する美しき二人”が映っていた。
カノンティアは壁際で、凍える指先でグラスを握りしめた。
氷がカランと鳴る。胸の奥に、冷たい痛みが広がっていく。
「姉上……お美しいですわね」
セレナーデがこちらを見て、甘く微笑んだ。
「殿下もおっしゃってくださったの。“薔薇色が、私にはよく似合う”と」
――薔薇色。
それは本来、カノンティアが婚約式のために選んだ布の色だった。
その瞬間、音楽が静まった。
王の側近が前に進み出て、広間が水を打ったように静まり返る。
殿下が、ゆっくりと人々の前へと進み出た。
その碧眼がまっすぐに輝き、告げた。
「本日、この場を借りて皆に伝えたいことがある」
空気が張り詰め、誰もが息を呑む。
カノンティアの胸に、不安が鋭い刃のように突き刺さった。
(まさか……こんな場所で……?)
「我、レオンハルト・アルヴェールは――これまでの婚約を破棄し、新たにセレナーデ・アークライトを正妃として迎えることを決意した」
時間が、止まった。
音楽も、声も、光さえも凍りつく。
静寂の中で、カノンティアの唇がわずかに震えた。
「な……」
声にならない声。
誰かの笑い、誰かのため息。すべてが遠く霞む。
“婚約破棄された令嬢”。その烙印が、冷たく刻まれる。
「殿下、それは――」
絞り出すように呼びかけた。
だが、レオンハルトは冷たく微笑むだけだった。
「カノンティア。君は立派な令嬢だ。しかし、王妃となるには冷たすぎる。民に寄り添う心が足りぬ」
(冷たい?わたくしが……?)
「君の努力は認めよう。だが、心を閉ざした者が、人の上に立つことはできない」
彼はわずかに視線を伏せ、言葉を継いだ。
「それに――お前の愛は重すぎる」
その一言が落ちた瞬間、どこかで小さな笑いがはじけ、波紋のように広がった。
「あぁ、重すぎる、だって」「執着が過ぎるのよ」――囁きが囁きを呼び、会場は押し殺した失笑で満ちる。
銀器の触れ合う微かな音でさえ、嘲りの鈴の音に聞こえた。
言葉が刃となって胸を裂いた。
周囲の視線が痛い。
誰も助けようとはしない。
彼女の居場所が、音もなく崩れ落ちていく。
「殿下……それが、本心でございますの?」
問いかけても、答えはなかった。
代わりに、彼は隣の妹の手を取り、微笑んだ。
その優しさこそ、最も残酷な宣告。
「私は――彼女と共に新しい時代を築く」
喝采が響く。
だがその拍手の一つひとつが、カノンティアには処刑の鐘に聞こえた。
(……そう。これが、答えなのね)
涙を落とさず、背筋を伸ばす。
顔を歪めず、唇に笑みを浮かべる。
たとえ誰も見ていなくとも――誇りだけは失わない。
「――おめでとうございます、殿下。どうか……お幸せに」
その声は穏やかで、美しかった。
けれど、胸の奥で何かが砕ける音がした。
カノンティアはドレスの裾を掴み、一礼し、静かに背を向けた。
拍手と失笑の混ざる波が背中を打つ。
それは祝福ではなく、断罪の音。
大広間を出ると、夜風が頬を撫でた。
庭園には白薔薇が咲き誇り、月光に照らされて儚く光っている。
その中で、彼女は立ち止まり、そっと瞳を閉じた。
(……終わったのね。すべて)
けれど、その瞳の奥には、かすかに燃える光があった。
――“見返してやる”。
静かに、しかし確かに灯る決意の炎。
風が吹き、胸元の青いリボンがひらりと揺れる。
それはかつて、殿下に結んでもらった約束の印。
「……殿下。わたくしを見捨てたこと――必ず後悔させて差し上げますわ」
その言葉は、夜の闇に溶けて消えた。
けれど、それはやがて王国を震撼させる“復讐の序章”となることを、まだ誰も知らなかった。
満月が蒼白い光を投げ、王宮の塔を金色に縁取る。噴水の水面には、無数の星が踊り、その光が揺らめきながら夜気に溶けていく。
その中心――王立舞踏会の会場となる大広間では、絢爛たる光と音と香りが渦を巻いていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、幾千ものクリスタルを散らし、床に虹色の反射を描く。
壁を覆う絹のカーテンは金糸で刺繍され、風にわずかに揺れて、まるで生き物のように光をはらむ。
音楽隊の奏でる弦と管の旋律、香水と花々の混じり合う香り、そして貴族たちの笑声――そのすべてが、夢と現実の境を曖昧にしていた。
今宵は王太子主催の舞踏会。
――王太子レオンハルト殿下が、正式に婚約者カノンティア・アークライトを伴って入場する夜。
控室では、カノンティアが鏡の前に立っていた。
大理石の床に映る自分の姿を見つめながら、侍女がドレスの裾をそっと整える。
淡い水色のドレスは、月光を溶かしたような光沢を放ち、胸元には王妃陛下より賜った月光石のネックレスが淡く揺れた。
「……きっと大丈夫。殿下は、わたくしの努力を見てくださっている」
震える唇で自分に言い聞かせ、深く息を吸う。
背筋を伸ばすと、緊張で胸の奥が痛むほど鼓動を打った。
(今夜こそ、わたくしが皆の前で――婚約者としての誇りを示すのだ)
扉の外から、トランペットの高らかな音が響いた。
会場の灯が一斉に明るくなり、注目が集まる。
白い階段の上に現れたその人――王太子レオンハルト。
陽光を閉じ込めたような金髪、氷を溶かすような碧眼。整った容姿と威厳を備えたその姿は、まるで神話の英雄だった。
けれど、その腕に寄り添う人影を見た瞬間、カノンティアの心臓が跳ね上がった。
「……セレナーデ?」
そこにいたのは、柔らかな桃色のドレスを纏った妹だった。
花のように可憐な笑みを浮かべ、殿下の腕に軽く身を預けている。
ざわめきが広間を満たす。人々の視線が二人に吸い寄せられ、ため息や歓声が混じり合う。
(そんなはずはない……わたくしの隣に立つのは、殿下の隣に立つのは――)
「本日の主賓――王太子レオンハルト殿下、そしてセレナーデ・アークライト嬢のご入場である!」
司会の声が響き渡った瞬間、カノンティアの足元から世界が傾いた。
空気が遠のく。
耳鳴りの中、笑い声と拍手だけが、どこか遠い世界の音のように聞こえた。
(なぜ……殿下、どうして……?)
音楽が始まり、二人は中央へ進み出る。
殿下の手に導かれ、セレナーデが軽やかに回る。その金髪が光を受け、花弁のように揺れる。
人々の目には、まさに“新しい時代を象徴する美しき二人”が映っていた。
カノンティアは壁際で、凍える指先でグラスを握りしめた。
氷がカランと鳴る。胸の奥に、冷たい痛みが広がっていく。
「姉上……お美しいですわね」
セレナーデがこちらを見て、甘く微笑んだ。
「殿下もおっしゃってくださったの。“薔薇色が、私にはよく似合う”と」
――薔薇色。
それは本来、カノンティアが婚約式のために選んだ布の色だった。
その瞬間、音楽が静まった。
王の側近が前に進み出て、広間が水を打ったように静まり返る。
殿下が、ゆっくりと人々の前へと進み出た。
その碧眼がまっすぐに輝き、告げた。
「本日、この場を借りて皆に伝えたいことがある」
空気が張り詰め、誰もが息を呑む。
カノンティアの胸に、不安が鋭い刃のように突き刺さった。
(まさか……こんな場所で……?)
「我、レオンハルト・アルヴェールは――これまでの婚約を破棄し、新たにセレナーデ・アークライトを正妃として迎えることを決意した」
時間が、止まった。
音楽も、声も、光さえも凍りつく。
静寂の中で、カノンティアの唇がわずかに震えた。
「な……」
声にならない声。
誰かの笑い、誰かのため息。すべてが遠く霞む。
“婚約破棄された令嬢”。その烙印が、冷たく刻まれる。
「殿下、それは――」
絞り出すように呼びかけた。
だが、レオンハルトは冷たく微笑むだけだった。
「カノンティア。君は立派な令嬢だ。しかし、王妃となるには冷たすぎる。民に寄り添う心が足りぬ」
(冷たい?わたくしが……?)
「君の努力は認めよう。だが、心を閉ざした者が、人の上に立つことはできない」
彼はわずかに視線を伏せ、言葉を継いだ。
「それに――お前の愛は重すぎる」
その一言が落ちた瞬間、どこかで小さな笑いがはじけ、波紋のように広がった。
「あぁ、重すぎる、だって」「執着が過ぎるのよ」――囁きが囁きを呼び、会場は押し殺した失笑で満ちる。
銀器の触れ合う微かな音でさえ、嘲りの鈴の音に聞こえた。
言葉が刃となって胸を裂いた。
周囲の視線が痛い。
誰も助けようとはしない。
彼女の居場所が、音もなく崩れ落ちていく。
「殿下……それが、本心でございますの?」
問いかけても、答えはなかった。
代わりに、彼は隣の妹の手を取り、微笑んだ。
その優しさこそ、最も残酷な宣告。
「私は――彼女と共に新しい時代を築く」
喝采が響く。
だがその拍手の一つひとつが、カノンティアには処刑の鐘に聞こえた。
(……そう。これが、答えなのね)
涙を落とさず、背筋を伸ばす。
顔を歪めず、唇に笑みを浮かべる。
たとえ誰も見ていなくとも――誇りだけは失わない。
「――おめでとうございます、殿下。どうか……お幸せに」
その声は穏やかで、美しかった。
けれど、胸の奥で何かが砕ける音がした。
カノンティアはドレスの裾を掴み、一礼し、静かに背を向けた。
拍手と失笑の混ざる波が背中を打つ。
それは祝福ではなく、断罪の音。
大広間を出ると、夜風が頬を撫でた。
庭園には白薔薇が咲き誇り、月光に照らされて儚く光っている。
その中で、彼女は立ち止まり、そっと瞳を閉じた。
(……終わったのね。すべて)
けれど、その瞳の奥には、かすかに燃える光があった。
――“見返してやる”。
静かに、しかし確かに灯る決意の炎。
風が吹き、胸元の青いリボンがひらりと揺れる。
それはかつて、殿下に結んでもらった約束の印。
「……殿下。わたくしを見捨てたこと――必ず後悔させて差し上げますわ」
その言葉は、夜の闇に溶けて消えた。
けれど、それはやがて王国を震撼させる“復讐の序章”となることを、まだ誰も知らなかった。