一途すぎて捨てられた令嬢、辺境で溺愛されて家族も未来も手に入れました
夜が明ける前の王都は、薄い霧に包まれていた。街灯の光は柔らかく霞み、石畳に落ちる輪郭をぼやけさせる。あの夜の舞踏会で鳴り響いた笑い声やワルツの旋律は、まるで別世界の出来事のように消え去り、今は遠い記憶のようにしか思えなかった。鳥の声も鐘の音も、すべてが遠ざかり、世界そのものが息を潜めているかのようだった。
カノンティアは、アークライト公爵家の本邸の自室にいた。白いカーテンの隙間から差し込む光は冷たく、夜通し灯していた燭台の炎は最後の滴を垂らしていた。鏡の前に座り、ぼんやりと映る自分の顔を見つめる。昨夜のドレスはまだ身体にまとわりつき、刺繍の糸とビーズが微かに肌に食い込む。胸元に残る月光石のネックレスは、冷え切っていて指先に触れると氷のように硬かった。
(夢じゃ……なかったのね)
扉の向こう側で交わされた言葉、周囲の視線、殿下の口からこぼれた一言一言が頭の中で反芻される。婚約を破棄されたこと。「お前の愛は重すぎる」と笑われたこと。妹セレナーデが正妃に選ばれた瞬間、拍手と失笑が混ざる中で自分だけが取り残されたこと。すべてが現実だったと、自分自身がそれを受け止めなければならない。
ノックの音がして、侍女マリアが怯えた顔で入ってきた。小柄な彼女の手は震え、瞳は真っ赤に腫れている。
「お、お嬢様……奥様がお呼びでございます……」
「……ええ、わかりました」
その声は自分のものではないように聞こえた。鏡に映る顔はいつもよりやつれ、唇は血の気を失っている。まるで蜃気楼が薄く揺れているように、表情が揺らいだ。
階段を下りるたび、屋敷の古い床板が軋む。応接間には朝の淡い光が差し込み、そこに既に集まっている家族の姿が見えた。父――アークライト公爵はいつもよりさらに冷たい佇まいで椅子に座っている。母は侍女の仕草のように扇をたたみ、妹セレナーデは白いレースの胸に手を当てて、悲しげに俯いている。しかし、その目の端には微かな満足の光が宿っていた。
「……来たか、カノンティア」
父の声音は低く、切り取ったように鋭い。迎えた彼女は形式的に礼をした。
「おはようございます、お父様」
「挨拶など不要だ。昨夜の醜態は、すでに王宮から報告を受けている」
父の一言に周囲の空気がさらに冷える。醜態――その言葉が胸の奥で何かを引き裂く。
「……醜態、とは……?」と、声が喉から出る。言葉は布切れのように擦り切れて聞こえた。
「公の場で殿下に恥をかかせた。感情的になり、場を乱した。アークライト家の名に泥を塗ったのだ」
母が冷ややかに扇を口元に当て、余裕なく吐き捨てるように言う。王太子のご発言の引用を丁寧に、しかし非情に並べ立てるその声音には慈しみは一欠片も混じらない。
「わたくしは……ただ、真実を……」
言いかけたところで、父が一段と声を荒げた。
「黙れ!」
その怒声は応接間を震わせ、カノンティアは体内で何かが凍るのを感じた。母はため息をつき、紅茶の香りが空気に混じる。セレナーデは隣で悲しそうにうつむくが、唇の端のほころびは隠しきれない。彼女の涙は、真実よりも策略の道具であることが薄く浮かび上がる。
「お姉様、わたくし……殿下に何度も申し上げましたの。お姉様の名誉は守りたいと。けれど、殿下はどうしても――」と、妹の声は震え、しかしどこか教科書通りの涙声だ。
(ああ、そういうことなのね)と、カノンティアの胸中で冷静な観察が働く。妹の涙は世間の同情を誘うための飾りだと、彼女は静かに見抜く。父母の言葉は家名と利害を守るための算段であることも。
父がゆっくりと口を開いた。
「カノンティア・アークライト。お前は本日をもって、王都を離れる。家の名をこれ以上貶めるわけにはいかぬ」
その宣告は判決のように響いた。カノンティアの心拍が一瞬、止まりかける。彼女の耳に響くのは自分の血の流れる音だけだった。
「離れる……?」
「アークライト家の所有地のひとつに、辺境の村がある。フェルゼン領の外れだ。かつては遠縁の分家が治めていたが、今は無人同然の土地だ」
その地名が示す風景が、頭の中に一幅の絵のように浮かんだ。王都の華やかさから遠く隔たった雪深い村。季節によっては孤立し、風が家々の隙間を鋭くかき鳴らすような場所。地図の端に押しやられたような、忘れ去られた土地。
マリアが小さく息を呑み、肩を震わせる。彼女の顔に浮かぶ恐怖は真実そのものだった。
「……つまり、追放、ということですのね」
その言葉には一片の遠慮もない。父は即座に否定する。
「そんな言葉を使うな。身の振り方を整えるための猶予だ。せめて、家名だけは残してやる」
「家名、ですか」
カノンティアは乾いた笑いを漏らす。どんな言葉を重ねても、それは追放だと自分は知っている。家名を守るために、彼女は廃棄物のように片隅へと置かれる。体の中で、長年育んできた期待や信頼が崩れ落ちる音がした。
「身支度を整えろ。昼には馬車を出す」
父の命令は単刀直入で、異議を挟む余地を与えない。母は静かに紅茶を飲み干す。セレナーデは名残惜しげに手を小さく振る。だがその振りは何よりも計算された演技に見えた。
カノンティアは深く頭を下げた。言葉は要らない。涙を見せることさえ、彼女にとっては屈辱だった。膝をついて哀願する者だと見られるのを、彼女は何よりも嫌った。
廊下を出ると、端に立つマリアが泣き崩れているのが見えた。小さな肩が震え、彼女の嗚咽が廊下の静けさに吸い込まれていく。
「お嬢様……ひどすぎます。あんな……」
「いいの、マリア。公爵家にとって、わたくしはもう不要なのでしょう」
カノンティアは、冷たく澄んだ微笑みを浮かべた。その笑みは痛々しいほど静かで、冬の朝の霜のように美しく、そして危険な硬度を帯びていた。
「せめて……せめて私もお供します!」
マリアの言葉は必死だったが、カノンティアは首を振る。
「……あなたはここに残りなさい。セレナーデの世話役に抜擢されるでしょう?それなら、それでいいの」
その選択は冷たい温情のようで、実際にはマリアの未来を確実に縛るものだ。だが、カノンティアはそれを受け入れることで、彼女の小さな忠誠心に報いたいと思った。残された者への最後の慈悲かもしれない。
昼になり、黒塗りの馬車が門を出る。王都の石造りの屋根が一つ、また一つと遠ざかっていく。見送りは形式的で、衛兵が門扉を開けるだけの音が虚しく響いた。カーテンの隙間から見下ろす王都の光は、次第に霧の中へと溶けていった。
馬車の窓に吹き付ける風が、彼女の頬を冷たく打つ。車内に残る香水の匂い、長年使ったドレスの繊維の擦れる音、馬の蹄の節を刻むリズムが彼女の鼓膜を軽く刺激する。遠ざかる王都の鐘楼、そしてかつて彼と交わした約束の言葉が耳の奥でまだ鳴り続ける。
「いつか、共に新しい王国を築こう」
殿下の声が、思い出の断片となって胸に残る。それは甘く、そして裏切りに満ちた響きだった。カノンティアは目を閉じ、指で胸元の月光石をぎゅっと掴む。冷たさが指先を通して心に伝わる。
「……レオンハルト殿下。わたくしの愛が重すぎると、そう仰いましたね」
その一言は、涙の代わりに静かな計算となる。感情は燃え盛る炎ではなく、ゆっくりと確実に燃え広がる火種へと変わっていく。
「ならば――その“重さ”で、あなたの王国を押し潰して差し上げますわ」
馬車が森の影に飲み込まれる。風が窓を叩き、遠くで雷鳴がひとつ、低く唸った。王都の光は完全に視界から消え、代わりに広がるのは雪を孕んだ大地と、空の低い灰色だけだった。
そのとき、彼女の中で何かが断絶した。表面的な令嬢の仮面は砕け散り、残されたのは冷徹な意志だけだった。追放が終わるまでは、人は彼女を憐れみに見るだろう。だがその先に芽吹くのは、復讐という名の新しい花であり、凍てついた土から必ず艶やかに咲き上がるものだと、彼女は信じていた。
カノンティアは、アークライト公爵家の本邸の自室にいた。白いカーテンの隙間から差し込む光は冷たく、夜通し灯していた燭台の炎は最後の滴を垂らしていた。鏡の前に座り、ぼんやりと映る自分の顔を見つめる。昨夜のドレスはまだ身体にまとわりつき、刺繍の糸とビーズが微かに肌に食い込む。胸元に残る月光石のネックレスは、冷え切っていて指先に触れると氷のように硬かった。
(夢じゃ……なかったのね)
扉の向こう側で交わされた言葉、周囲の視線、殿下の口からこぼれた一言一言が頭の中で反芻される。婚約を破棄されたこと。「お前の愛は重すぎる」と笑われたこと。妹セレナーデが正妃に選ばれた瞬間、拍手と失笑が混ざる中で自分だけが取り残されたこと。すべてが現実だったと、自分自身がそれを受け止めなければならない。
ノックの音がして、侍女マリアが怯えた顔で入ってきた。小柄な彼女の手は震え、瞳は真っ赤に腫れている。
「お、お嬢様……奥様がお呼びでございます……」
「……ええ、わかりました」
その声は自分のものではないように聞こえた。鏡に映る顔はいつもよりやつれ、唇は血の気を失っている。まるで蜃気楼が薄く揺れているように、表情が揺らいだ。
階段を下りるたび、屋敷の古い床板が軋む。応接間には朝の淡い光が差し込み、そこに既に集まっている家族の姿が見えた。父――アークライト公爵はいつもよりさらに冷たい佇まいで椅子に座っている。母は侍女の仕草のように扇をたたみ、妹セレナーデは白いレースの胸に手を当てて、悲しげに俯いている。しかし、その目の端には微かな満足の光が宿っていた。
「……来たか、カノンティア」
父の声音は低く、切り取ったように鋭い。迎えた彼女は形式的に礼をした。
「おはようございます、お父様」
「挨拶など不要だ。昨夜の醜態は、すでに王宮から報告を受けている」
父の一言に周囲の空気がさらに冷える。醜態――その言葉が胸の奥で何かを引き裂く。
「……醜態、とは……?」と、声が喉から出る。言葉は布切れのように擦り切れて聞こえた。
「公の場で殿下に恥をかかせた。感情的になり、場を乱した。アークライト家の名に泥を塗ったのだ」
母が冷ややかに扇を口元に当て、余裕なく吐き捨てるように言う。王太子のご発言の引用を丁寧に、しかし非情に並べ立てるその声音には慈しみは一欠片も混じらない。
「わたくしは……ただ、真実を……」
言いかけたところで、父が一段と声を荒げた。
「黙れ!」
その怒声は応接間を震わせ、カノンティアは体内で何かが凍るのを感じた。母はため息をつき、紅茶の香りが空気に混じる。セレナーデは隣で悲しそうにうつむくが、唇の端のほころびは隠しきれない。彼女の涙は、真実よりも策略の道具であることが薄く浮かび上がる。
「お姉様、わたくし……殿下に何度も申し上げましたの。お姉様の名誉は守りたいと。けれど、殿下はどうしても――」と、妹の声は震え、しかしどこか教科書通りの涙声だ。
(ああ、そういうことなのね)と、カノンティアの胸中で冷静な観察が働く。妹の涙は世間の同情を誘うための飾りだと、彼女は静かに見抜く。父母の言葉は家名と利害を守るための算段であることも。
父がゆっくりと口を開いた。
「カノンティア・アークライト。お前は本日をもって、王都を離れる。家の名をこれ以上貶めるわけにはいかぬ」
その宣告は判決のように響いた。カノンティアの心拍が一瞬、止まりかける。彼女の耳に響くのは自分の血の流れる音だけだった。
「離れる……?」
「アークライト家の所有地のひとつに、辺境の村がある。フェルゼン領の外れだ。かつては遠縁の分家が治めていたが、今は無人同然の土地だ」
その地名が示す風景が、頭の中に一幅の絵のように浮かんだ。王都の華やかさから遠く隔たった雪深い村。季節によっては孤立し、風が家々の隙間を鋭くかき鳴らすような場所。地図の端に押しやられたような、忘れ去られた土地。
マリアが小さく息を呑み、肩を震わせる。彼女の顔に浮かぶ恐怖は真実そのものだった。
「……つまり、追放、ということですのね」
その言葉には一片の遠慮もない。父は即座に否定する。
「そんな言葉を使うな。身の振り方を整えるための猶予だ。せめて、家名だけは残してやる」
「家名、ですか」
カノンティアは乾いた笑いを漏らす。どんな言葉を重ねても、それは追放だと自分は知っている。家名を守るために、彼女は廃棄物のように片隅へと置かれる。体の中で、長年育んできた期待や信頼が崩れ落ちる音がした。
「身支度を整えろ。昼には馬車を出す」
父の命令は単刀直入で、異議を挟む余地を与えない。母は静かに紅茶を飲み干す。セレナーデは名残惜しげに手を小さく振る。だがその振りは何よりも計算された演技に見えた。
カノンティアは深く頭を下げた。言葉は要らない。涙を見せることさえ、彼女にとっては屈辱だった。膝をついて哀願する者だと見られるのを、彼女は何よりも嫌った。
廊下を出ると、端に立つマリアが泣き崩れているのが見えた。小さな肩が震え、彼女の嗚咽が廊下の静けさに吸い込まれていく。
「お嬢様……ひどすぎます。あんな……」
「いいの、マリア。公爵家にとって、わたくしはもう不要なのでしょう」
カノンティアは、冷たく澄んだ微笑みを浮かべた。その笑みは痛々しいほど静かで、冬の朝の霜のように美しく、そして危険な硬度を帯びていた。
「せめて……せめて私もお供します!」
マリアの言葉は必死だったが、カノンティアは首を振る。
「……あなたはここに残りなさい。セレナーデの世話役に抜擢されるでしょう?それなら、それでいいの」
その選択は冷たい温情のようで、実際にはマリアの未来を確実に縛るものだ。だが、カノンティアはそれを受け入れることで、彼女の小さな忠誠心に報いたいと思った。残された者への最後の慈悲かもしれない。
昼になり、黒塗りの馬車が門を出る。王都の石造りの屋根が一つ、また一つと遠ざかっていく。見送りは形式的で、衛兵が門扉を開けるだけの音が虚しく響いた。カーテンの隙間から見下ろす王都の光は、次第に霧の中へと溶けていった。
馬車の窓に吹き付ける風が、彼女の頬を冷たく打つ。車内に残る香水の匂い、長年使ったドレスの繊維の擦れる音、馬の蹄の節を刻むリズムが彼女の鼓膜を軽く刺激する。遠ざかる王都の鐘楼、そしてかつて彼と交わした約束の言葉が耳の奥でまだ鳴り続ける。
「いつか、共に新しい王国を築こう」
殿下の声が、思い出の断片となって胸に残る。それは甘く、そして裏切りに満ちた響きだった。カノンティアは目を閉じ、指で胸元の月光石をぎゅっと掴む。冷たさが指先を通して心に伝わる。
「……レオンハルト殿下。わたくしの愛が重すぎると、そう仰いましたね」
その一言は、涙の代わりに静かな計算となる。感情は燃え盛る炎ではなく、ゆっくりと確実に燃え広がる火種へと変わっていく。
「ならば――その“重さ”で、あなたの王国を押し潰して差し上げますわ」
馬車が森の影に飲み込まれる。風が窓を叩き、遠くで雷鳴がひとつ、低く唸った。王都の光は完全に視界から消え、代わりに広がるのは雪を孕んだ大地と、空の低い灰色だけだった。
そのとき、彼女の中で何かが断絶した。表面的な令嬢の仮面は砕け散り、残されたのは冷徹な意志だけだった。追放が終わるまでは、人は彼女を憐れみに見るだろう。だがその先に芽吹くのは、復讐という名の新しい花であり、凍てついた土から必ず艶やかに咲き上がるものだと、彼女は信じていた。