0時の鐘はあなたへ――推しと先輩が重なる夜
第3話「生配信と非常事態」
プレゼン会場の空気は、午前のコーヒーみたいにまだ熱が残っているのに、飲もうとすると少し苦い。
天井から吊られたスピーカーが四角い影を床に落とし、椅子の列は谷の段々畑のように整っている。スタッフ用の通路を通ってスクリーン脇に立つと、足元のケーブルが一本、わずかに浮いていた。嫌な予感は、こういう形をして現れる。
「――音、出ません」
音響担当のスタッフがインカムに短く告げた。
ステージ袖にいた私は、反射でタイムテーブルを見る。機材会社の到着予定まで三十分。プレゼン開始は二十五分後。間に合わない。
「テスト、一から巻き戻す?」
「ケーブル換え、あります?」
「いや、在庫が――」
言葉が互いにぶつかって、床に落ちる。
喉の奥の小骨が戻ってきたみたいに呼吸が浅くなり、私は無意識に右手首を押さえた。脈が少し速い。
ステージの下、通路の端で誰かが一度だけ指笛を鳴らした。雨宮先輩だ。
彼は人混みの縁に立ち、こちらを見ないまま片手を上げ、二本の指で台形をつくった。ミキサー。もう片方の手は、斜めに差し替えるジェスチャー。ケーブルの差し順を入れ替えろ、という合図だ。
でも、どれとどれを。
会場のざわめきが、豆を煎る匂いのように熱くなる。私は胸の奥に短い合言葉を探して、見つけた。
――鐘。
スマホはマナーモードのままポケットに入っていたのに、身体のどこかでラ――ソ――ミが鳴る。
Lの“昼枠”が、ときどき無予告で立つ曜日だ。
私はステージ脇の暗がりでイヤホンを片耳に差し込んだ。周囲の音に耳を開けたまま、もう片方は空けておく。パチ、とスイッチを入れるみたいに、低音が世界に滲む。
『こんにちは。珍しく昼の子守歌。――いま、会場にいる人へ。聞こえてたら、深呼吸一回』
言い当てるのはやめて、と心のどこかが笑って、どこかが泣いた。
私の肺は自動的に、四つ吸って六つ吐いた。
『ミキサーのAとBを、一度だけ逆に刺して。白いケーブルの先、銀じゃなくて黒のほうに。電源落とさない』
ステージ袖の音響台に向かって、私は駆け寄る。
「AとB、逆刺し、白は黒へ。電源落とさないでください」
言いながら、自分の声がさらさらと喉を通るのがわかる。恐怖より先に、手が動いた。
音響スタッフは一瞬だけ私を見て、すぐに手を動かす。
「やってみる」
パチ、パチ。
ミキサー上の小さなランプが一つ消えて、一つ点く。私は画面上のレベルメーターを見つめる。棒が、息をひそめたみたいに止まっている。
雨宮先輩の横顔が視界の端に入る。彼は遠くから、右手で「もっと右」と人差し指をゆっくり動かした。私は一歩、右へ移動する。人の波が押し寄せてきた瞬間、彼の腕が私の肩と客席の背もたれのあいだに防波堤をつくった。右隣。
安全地帯。
空気がそこだけ、少し静かになる。
『じゃ、次。ステージのモニター、左だけミュート。スピーカーアウトの1と2をスワップ』
Lの声と、雨宮先輩の手振りが、ぴたりと合う。
私は音響スタッフの肩越しに設定画面を示し、左モニターのミュートを確認する。
手元のスライダーを上げると、レベルメーターが呼吸を再開した。
ステージのマイクに、音が戻る。
ビー、という嫌なハウリングの気配が喉に刺さる前に、雨宮先輩が指を立てて、空中に小さな円を描いた。回して。少しだけ。
ミキサーのつまみをほんのわずか右へ。
ハウリングの芽が摘まれる。
客席が、おそるおそる拍手を始めた。
拍手は最初、細い川の音みたいだったのに、すぐに合流して、やわらかく流れ込んでくる。
「戻った!」
音響スタッフの声があがり、私はほっと息を吐いた。
雨宮先輩は相変わらずこちらを見ない。見ないまま、ステージの端に立ち、進行表を指で二つ折って担当者に渡す。
合図。
始めるぞ。
私はイヤホンを片耳から外す。Lの低音は遠ざかる。
でも、合言葉の鐘は胸のなかに残ったままだ。
ラ――ソ――ミ。
私の鼓動と少しずれて、しかし確かに同じ歌を歌う。
*
プレゼンが始まってしまえば、私の役割は影の濃度を保つことだった。ステージの明るさと客席の暗さが、きちんと境界線を引いているか。指示が照明に埋もれていないか。
アナウンスのタイミング。動画の再生。質疑応答の拾い方。
すべては、五行に集約できる。
一、事実を間違えない。
二、時間を狂わせない。
三、誰も責めない。
四、誰も置いていかない。
五、場の心拍を乱さない。
進行は驚くほど滑らかだった。音が戻ったことで、会場は最初のざわめきを忘れてしまったかのようにリズムを取り戻した。
ステージの袖から袖へ移動するたび、雨宮先輩の影が視界の端で動く。彼は必要なときだけ、短く首を縦に振る。
大丈夫。
その一回の肯定が、私の足の運びを軽くした。
終演。拍手。退場の誘導。
ロビーに人の流れが雪崩のように移り、私はスタッフ用の通路で壁にもたれた。
スマホが指先のなかで震える。
昼枠の配信はまだ続いていた。イヤホンを片耳に戻す。
チャット欄の流れが、さっきの客席とは別の川の速さで流れている。
――Linは今日、現場?
――さっきの音の件、もしかして
――Lって、現場知ってるよね
冷たい指先で頬を撫でられるみたいに、ぞわりと鳥肌が立つ。
Lは少しだけ黙った。
ほんの三秒。
でも、その三秒が心臓の裏側に直接触れてくる。
『彼女は、よく頑張ってる』
低い声が、川の音を鎮めた。
“彼女”。
名前は言わない。言えない。
けれど海の上に、一本だけ浮標が立つ。
匿名の海で指さされた先に、私が立っている。
幸福と、恐怖が同じ速度で胸の中を走った。知られたくない。知られたい。守られたい。守りたい。
無口な先輩の無関心に見える距離と、匿名の声のあからさまな近さ。
二つの矛盾は、同じ手で私の背中を押す。
『昼枠はここまで。――君も、よく頑張った。右隣、覚えておいてね』
通信が切れる直前、かすかに紙の音が混じった。台本か、資料か。
私はイヤホンを外し、肩の力をほどいた。
会場の片付けが始まる。係の人がケーブルを巻き、パーテーションがカタカタと畳まれる。
雨宮先輩が、いつのまにか私の目の前にいた。
「終わり」
「はい」
「無事に」
「……あの、ほんとに。ありがとうございました」
「僕は何もしてない」
「してました」
即答したら、彼の目じりが一瞬だけ和らいだ。
そして、すぐにいつもの温度に戻る。
「今夜、声を休めろ」
「え?」
「代わりに、読み聞かせする」
心拍が、一瞬で上ずる。
読み聞かせ。
夜の配信で何度も聞いて眠った、あのやさしい速度。
Lの声が、私の部屋へ届くときの温度。
……違う、今は目の前の彼の話だ。
私は咳払いを一つして、動揺を押さえる。
「読み聞かせ、って。会社でですか」
「違う。リモートで。二十分」
「二十分」
「眠れる」
「はい」
はい、と言った瞬間、胸の奥で何かが合致した音がした。
彼は時間を告げず、約束の場所も言わない。
けれど、夜、私はアプリを開く。
“深夜0時の子守歌”。
そのタイトルの下に、小さな文字が増えている。
――特別:読み聞かせで眠る夜。
*
部屋の灯りを落として、ベッドの端に座る。枕の高さを二センチ下げる。
ラ――ソ――ミ。
鐘が鳴る。
Lの低音が、昼よりゆっくり私の背骨を撫でる。
『こんばんは。特別の“読み聞かせ”の前に、短い言葉を』
私は息を整える。右を下にして寝転がる準備をしながら、スマホを横向きに置く。
チャット欄が、夜の虫の声みたいに賑やかだ。
――読み聞かせうれしい
――Lin専用BGMまた来る?
――昼のやつ、助かった人ありがと
Lは、少しだけ間を置いた。
今日二度目の、三秒の沈黙。
昼の三秒は心臓の裏に触れ、今度の三秒は喉の内側に膜を張る。
『“言い切る。事実だけ。五行で。”』
朗読じゃない。引用。
今日の午後、私の資料に落とされた赤の骨組み。
雨宮先輩の声が言った、その通りの語順。
スマホの光が、指先の汗で一度だけ滲む。
偶然で片付けるには、言葉は正確すぎた。
『では、読みます。――森の入口に、赤い小石を置いていく話。迷わないために。戻れるように』
紙の音。ページをめくる、乾いたやさしさ。
語尾がわずかに上がって、すぐ戻る。
私の呼吸は、ページの音に同期する。
赤い小石は、否定の印じゃない。輪郭線。進むための合図。
昼の私が五行に削ったときに、こぼれ落ちてしまった感情の欠片を、Lの声が拾って並べていく。
眠りが遠くから降りてきて、額にそっと触れる。
寝落ちの直前、低い声が落ちた。
『右隣は、いつでも安全地帯』
私は右を下にして横向きになる。頬に当たる枕の冷たさがすぐに温度を変え、耳の奥でラ――ソ――ミが小さく鳴った。
意識が薄れていく最中、私は決める。
逃げない。
この“二つの声”の向こう側へ、言葉で届く距離まで近づく。
誰のための秘密か、誰のための沈黙かを、確かにする。
*
朝。
会社の玄関で、私は一度だけ立ち止まる。
夜の決意は、昼の光に弱い。
けど、今日は背中に薄い膜が一枚増えている。読み聞かせの余韻。
エレベーターホールは何事もなく動き、廊下の先で雨宮先輩が一枚の紙を私に渡した。
赤いペンが二本、クリップで留められている。
「今日も、五行」
「はい」
会議室に向かう途中、彼は横を歩く私に言った。
「昨日、よくやった」
「……ありがとうございます」
「君は、戻れる」
戻れる。
迷わずに。
赤い小石をひとつずつ置くみたいに、言葉を置いていけば。
私は彼の横顔を見ない。見ないまま、呼吸の数を四と六で数える。
昼の彼と、夜の声。
合致する。
でも、まだ言わない。
言わないことが、いまは守ることになるなら。
言うために、整える。
職場の私と、配信の私。
その境界線を、自分の手で引けるように。
窓の外の光は薄く、蜂蜜の色に似ていた。
私は指先を温めるみたいに両手を合わせ、会議室のドアに手をかけた。
向こう側で、赤いペンのキャップが外れる乾いた音がした。
ページがめくられるみたいに、今日が始まる。
天井から吊られたスピーカーが四角い影を床に落とし、椅子の列は谷の段々畑のように整っている。スタッフ用の通路を通ってスクリーン脇に立つと、足元のケーブルが一本、わずかに浮いていた。嫌な予感は、こういう形をして現れる。
「――音、出ません」
音響担当のスタッフがインカムに短く告げた。
ステージ袖にいた私は、反射でタイムテーブルを見る。機材会社の到着予定まで三十分。プレゼン開始は二十五分後。間に合わない。
「テスト、一から巻き戻す?」
「ケーブル換え、あります?」
「いや、在庫が――」
言葉が互いにぶつかって、床に落ちる。
喉の奥の小骨が戻ってきたみたいに呼吸が浅くなり、私は無意識に右手首を押さえた。脈が少し速い。
ステージの下、通路の端で誰かが一度だけ指笛を鳴らした。雨宮先輩だ。
彼は人混みの縁に立ち、こちらを見ないまま片手を上げ、二本の指で台形をつくった。ミキサー。もう片方の手は、斜めに差し替えるジェスチャー。ケーブルの差し順を入れ替えろ、という合図だ。
でも、どれとどれを。
会場のざわめきが、豆を煎る匂いのように熱くなる。私は胸の奥に短い合言葉を探して、見つけた。
――鐘。
スマホはマナーモードのままポケットに入っていたのに、身体のどこかでラ――ソ――ミが鳴る。
Lの“昼枠”が、ときどき無予告で立つ曜日だ。
私はステージ脇の暗がりでイヤホンを片耳に差し込んだ。周囲の音に耳を開けたまま、もう片方は空けておく。パチ、とスイッチを入れるみたいに、低音が世界に滲む。
『こんにちは。珍しく昼の子守歌。――いま、会場にいる人へ。聞こえてたら、深呼吸一回』
言い当てるのはやめて、と心のどこかが笑って、どこかが泣いた。
私の肺は自動的に、四つ吸って六つ吐いた。
『ミキサーのAとBを、一度だけ逆に刺して。白いケーブルの先、銀じゃなくて黒のほうに。電源落とさない』
ステージ袖の音響台に向かって、私は駆け寄る。
「AとB、逆刺し、白は黒へ。電源落とさないでください」
言いながら、自分の声がさらさらと喉を通るのがわかる。恐怖より先に、手が動いた。
音響スタッフは一瞬だけ私を見て、すぐに手を動かす。
「やってみる」
パチ、パチ。
ミキサー上の小さなランプが一つ消えて、一つ点く。私は画面上のレベルメーターを見つめる。棒が、息をひそめたみたいに止まっている。
雨宮先輩の横顔が視界の端に入る。彼は遠くから、右手で「もっと右」と人差し指をゆっくり動かした。私は一歩、右へ移動する。人の波が押し寄せてきた瞬間、彼の腕が私の肩と客席の背もたれのあいだに防波堤をつくった。右隣。
安全地帯。
空気がそこだけ、少し静かになる。
『じゃ、次。ステージのモニター、左だけミュート。スピーカーアウトの1と2をスワップ』
Lの声と、雨宮先輩の手振りが、ぴたりと合う。
私は音響スタッフの肩越しに設定画面を示し、左モニターのミュートを確認する。
手元のスライダーを上げると、レベルメーターが呼吸を再開した。
ステージのマイクに、音が戻る。
ビー、という嫌なハウリングの気配が喉に刺さる前に、雨宮先輩が指を立てて、空中に小さな円を描いた。回して。少しだけ。
ミキサーのつまみをほんのわずか右へ。
ハウリングの芽が摘まれる。
客席が、おそるおそる拍手を始めた。
拍手は最初、細い川の音みたいだったのに、すぐに合流して、やわらかく流れ込んでくる。
「戻った!」
音響スタッフの声があがり、私はほっと息を吐いた。
雨宮先輩は相変わらずこちらを見ない。見ないまま、ステージの端に立ち、進行表を指で二つ折って担当者に渡す。
合図。
始めるぞ。
私はイヤホンを片耳から外す。Lの低音は遠ざかる。
でも、合言葉の鐘は胸のなかに残ったままだ。
ラ――ソ――ミ。
私の鼓動と少しずれて、しかし確かに同じ歌を歌う。
*
プレゼンが始まってしまえば、私の役割は影の濃度を保つことだった。ステージの明るさと客席の暗さが、きちんと境界線を引いているか。指示が照明に埋もれていないか。
アナウンスのタイミング。動画の再生。質疑応答の拾い方。
すべては、五行に集約できる。
一、事実を間違えない。
二、時間を狂わせない。
三、誰も責めない。
四、誰も置いていかない。
五、場の心拍を乱さない。
進行は驚くほど滑らかだった。音が戻ったことで、会場は最初のざわめきを忘れてしまったかのようにリズムを取り戻した。
ステージの袖から袖へ移動するたび、雨宮先輩の影が視界の端で動く。彼は必要なときだけ、短く首を縦に振る。
大丈夫。
その一回の肯定が、私の足の運びを軽くした。
終演。拍手。退場の誘導。
ロビーに人の流れが雪崩のように移り、私はスタッフ用の通路で壁にもたれた。
スマホが指先のなかで震える。
昼枠の配信はまだ続いていた。イヤホンを片耳に戻す。
チャット欄の流れが、さっきの客席とは別の川の速さで流れている。
――Linは今日、現場?
――さっきの音の件、もしかして
――Lって、現場知ってるよね
冷たい指先で頬を撫でられるみたいに、ぞわりと鳥肌が立つ。
Lは少しだけ黙った。
ほんの三秒。
でも、その三秒が心臓の裏側に直接触れてくる。
『彼女は、よく頑張ってる』
低い声が、川の音を鎮めた。
“彼女”。
名前は言わない。言えない。
けれど海の上に、一本だけ浮標が立つ。
匿名の海で指さされた先に、私が立っている。
幸福と、恐怖が同じ速度で胸の中を走った。知られたくない。知られたい。守られたい。守りたい。
無口な先輩の無関心に見える距離と、匿名の声のあからさまな近さ。
二つの矛盾は、同じ手で私の背中を押す。
『昼枠はここまで。――君も、よく頑張った。右隣、覚えておいてね』
通信が切れる直前、かすかに紙の音が混じった。台本か、資料か。
私はイヤホンを外し、肩の力をほどいた。
会場の片付けが始まる。係の人がケーブルを巻き、パーテーションがカタカタと畳まれる。
雨宮先輩が、いつのまにか私の目の前にいた。
「終わり」
「はい」
「無事に」
「……あの、ほんとに。ありがとうございました」
「僕は何もしてない」
「してました」
即答したら、彼の目じりが一瞬だけ和らいだ。
そして、すぐにいつもの温度に戻る。
「今夜、声を休めろ」
「え?」
「代わりに、読み聞かせする」
心拍が、一瞬で上ずる。
読み聞かせ。
夜の配信で何度も聞いて眠った、あのやさしい速度。
Lの声が、私の部屋へ届くときの温度。
……違う、今は目の前の彼の話だ。
私は咳払いを一つして、動揺を押さえる。
「読み聞かせ、って。会社でですか」
「違う。リモートで。二十分」
「二十分」
「眠れる」
「はい」
はい、と言った瞬間、胸の奥で何かが合致した音がした。
彼は時間を告げず、約束の場所も言わない。
けれど、夜、私はアプリを開く。
“深夜0時の子守歌”。
そのタイトルの下に、小さな文字が増えている。
――特別:読み聞かせで眠る夜。
*
部屋の灯りを落として、ベッドの端に座る。枕の高さを二センチ下げる。
ラ――ソ――ミ。
鐘が鳴る。
Lの低音が、昼よりゆっくり私の背骨を撫でる。
『こんばんは。特別の“読み聞かせ”の前に、短い言葉を』
私は息を整える。右を下にして寝転がる準備をしながら、スマホを横向きに置く。
チャット欄が、夜の虫の声みたいに賑やかだ。
――読み聞かせうれしい
――Lin専用BGMまた来る?
――昼のやつ、助かった人ありがと
Lは、少しだけ間を置いた。
今日二度目の、三秒の沈黙。
昼の三秒は心臓の裏に触れ、今度の三秒は喉の内側に膜を張る。
『“言い切る。事実だけ。五行で。”』
朗読じゃない。引用。
今日の午後、私の資料に落とされた赤の骨組み。
雨宮先輩の声が言った、その通りの語順。
スマホの光が、指先の汗で一度だけ滲む。
偶然で片付けるには、言葉は正確すぎた。
『では、読みます。――森の入口に、赤い小石を置いていく話。迷わないために。戻れるように』
紙の音。ページをめくる、乾いたやさしさ。
語尾がわずかに上がって、すぐ戻る。
私の呼吸は、ページの音に同期する。
赤い小石は、否定の印じゃない。輪郭線。進むための合図。
昼の私が五行に削ったときに、こぼれ落ちてしまった感情の欠片を、Lの声が拾って並べていく。
眠りが遠くから降りてきて、額にそっと触れる。
寝落ちの直前、低い声が落ちた。
『右隣は、いつでも安全地帯』
私は右を下にして横向きになる。頬に当たる枕の冷たさがすぐに温度を変え、耳の奥でラ――ソ――ミが小さく鳴った。
意識が薄れていく最中、私は決める。
逃げない。
この“二つの声”の向こう側へ、言葉で届く距離まで近づく。
誰のための秘密か、誰のための沈黙かを、確かにする。
*
朝。
会社の玄関で、私は一度だけ立ち止まる。
夜の決意は、昼の光に弱い。
けど、今日は背中に薄い膜が一枚増えている。読み聞かせの余韻。
エレベーターホールは何事もなく動き、廊下の先で雨宮先輩が一枚の紙を私に渡した。
赤いペンが二本、クリップで留められている。
「今日も、五行」
「はい」
会議室に向かう途中、彼は横を歩く私に言った。
「昨日、よくやった」
「……ありがとうございます」
「君は、戻れる」
戻れる。
迷わずに。
赤い小石をひとつずつ置くみたいに、言葉を置いていけば。
私は彼の横顔を見ない。見ないまま、呼吸の数を四と六で数える。
昼の彼と、夜の声。
合致する。
でも、まだ言わない。
言わないことが、いまは守ることになるなら。
言うために、整える。
職場の私と、配信の私。
その境界線を、自分の手で引けるように。
窓の外の光は薄く、蜂蜜の色に似ていた。
私は指先を温めるみたいに両手を合わせ、会議室のドアに手をかけた。
向こう側で、赤いペンのキャップが外れる乾いた音がした。
ページがめくられるみたいに、今日が始まる。