0時の鐘はあなたへ――推しと先輩が重なる夜

第4話「収録ブースの告白」

 出向願いのフォームに、理由欄があった。
 私は定型の文言を選びながら、指先の温度を何度も確かめた。
 ――「広報動画のナレーション品質確認のため」。
 それは嘘ではない。ただ、全部でもない。夜ごと聴いてきた声の、「向こう側」に手を伸ばすための、最後の橋の名前だった。

「出向、許可します」

 提出から二時間後、雨宮先輩からのメッセージはそれだけだった。余白の多い返事。だけど、その余白には信頼の温度が確かに含まれていた。

 午後、私は音声制作会社の受付に立っていた。
 靴底が柔らかいカーペットに沈み、空調の風がどこにもぶつからないで巡っている。ロビーの観葉植物にはほこりひとつなく、壁に掛かったアートは音の波形を抽象化した絵らしく、よく見ると端のほうが小さな梯子みたいな形をしている。音の世界の、向こうとこちらを結ぶ梯子。

「スタジオBの見学ですね。ご案内します」

 スタッフの女性に導かれ、細い廊下を進む。壁のガラス越しに、別のスタジオの中が一瞬だけ見えた。黒いフェルトの壁。マイクスタンド。赤いキューランプが消える瞬間、誰かの姿勢が一度だけほどけて、すぐ引き締まる。音の仕事は、体幹の筋肉に似ている。見えないところで、ずっと支え続ける。

「こちらがBです。今日は社内案件の収録が一本入っています。ブースの外からでしたら、ご自由に」

「ありがとうございます」

 足元の空気が、少しだけ冷えた。
 スタジオBは、私が想像していたよりも小さかった。ブースとコントロールルームを隔てるガラスは厚く、音の往来を慎重に断っている。室内に置かれたマイクは一本。ヘッドホン。ポップガード。
 ブース内の椅子に、背の高い人が腰を下ろす。横顔。
 見慣れた横顔だった。
 ――無口、という言葉の、見本のような横顔。

 キューランプが点く。
 ヘッドホンが耳を包む。
 世界が、静止する。

「……」

 瞬間、皮膚の内側の空気が一気に澄んで、私の呼吸が自動的に「四吸って六吐く」に切り替わる。
 低音が、ガラスのこちら側にまで染みてきた。
 ブースの空気だけが震え、こちらはただ、その震えに触れている。

『本日はナレーションのテストを行います。レベル、いけます』

 仕事の声だ、と頭では理解する。
 けれど、その音色の奥に、夜の合言葉が微かにこぼれているのを、身体が先に思い出す。

『0:00の鐘、君だけに』

 口の中で、音節が転がった。唇の裏に隠れていたはずの言葉たちが、出番が来たよと手を挙げる。
 私は手帳を握りなおし、手汗で少し湿った紙の感触を確かめた。胸の奥で、鐘が鳴る。ラ――ソ――ミ。
 キューランプがふっと落ち、扉が開く。
 交代のための、ほんの短い隙間。
 私はその隙間に、体のすべてを押し込んだ。

「……合言葉、言ってもいいですか?」

 声は思ったよりも小さかった。空調の音に掻き消えそうな、消えなかった。
 雨宮先輩の眉が、ほんのすこしだけ揺れる。
 目が、私をまっすぐに見た。
 彼は何も言わない。言わないまま、ヘッドホンの片耳を外し、それを私の右耳にそっと当てた。
 柔らかいパッドの温度。彼の指の温度。
 片耳の向こうで、スタジオの息が鳴っている。

「0:00の鐘、君だけに」

 言った瞬間、自分の声が自分に返ってきた。
 ヘッドホンの片耳から、ほんのわずか遅れて。
 その遅延が、キスの前の一拍みたいに世界を静かにする。
 雨宮先輩が、私の名を初めて、真正面から呼んだ。

「……一花」

 呼ばれただけで、膝が少し笑う。
 彼はそこで、微かに笑って、唇を寄せた。
 触れるだけ。
 音にならないキス。
「収録中だから、音は立てない」

 仕事人の矜持と、どうしようもなく甘い人が、同じ骨の中にいることを、唇の温度が教えてくる。
 ヘッドホンはまだ、私と彼の片耳を繋いだまま。乏しい音が、二人の間の沈黙を均一にしていた。

 ブースの外、エンジニアが控えめに咳払いをした。
 私はヘッドホンを耳から外し、彼に返す。
 彼はそれを受け取りながら、低く言った。

「最初は偶然だった」

 私は息を飲む。
 夜の声が、昼の彼の喉から続いていく。

「君のIDに気づいた。Lin。最初は、ただ、救いたいと思った。声で。君の呼吸が浅くなるとき、背中に空気が通るように」

「……」

「仕事では線を引いた。評価に私情を混ぜない。混ぜたくない。でも」

 彼はそこで、喉を一度だけ鳴らした。
 言葉を選ぶときの、癖の音。

「もう線が引けない」

 ガラスの向こう、コントロールルームの光がぼやけて見えた。
 涙腺が一瞬だけ、悪戯好きの子どもみたいにいたずらを企んだが、泣くのはまだ早い。私は代わりに、ゆっくりと言葉を置いた。

「私も、です」

 彼の目が揺れ、すぐに定まる。
 私は続ける。

「“隠す”って、逃げるためじゃないですよね。守るために、隠す。……あなたを独りにしないために、私も隠します。必要なあいだだけ」

 彼の口角が、ようやくきちんと笑った。
 でも、すぐに真顔に戻る。

「条件がある」

「はい」

「社内では、今は伏せる。君の評価に傷がつかないように。僕の権限でできる線引きは全部する。配信――“L”の側でも、君を守る。匂わせだけでは済まないときは、正面から」

「正面から」

「うん」

 言い合い、ではない。取り交わし。
 手ぶらの契約書を、言葉だけで交わす。
 私は右手の親指で、人差し指の腹をそっと撫でた。緊張を退屈に変える、小さな儀式。

「ひとつだけ、私の条件いいですか」

「何」

「“右隣”は、必ず空けておいてください」

 雨宮先輩の目が、静かに笑った。

「空ける」

「ありがとうございます」

 扉の向こうで、キューランプが一瞬だけ点滅する。
 エンジニアが手で合図を送ってきた。
 私は一歩引き、彼はブースに戻る。
 扉が閉まる前、彼が短く囁いた。

「今夜、特別回を告知する。“0時、君と”。――準備は、いい?」

「はい」

 扉が閉まる。世界が再び、音のための世界になる。
 私はガラス越しに彼の横顔を見守った。
 キューランプが点り、呼吸が流れ、言葉が生まれる。
 “L”の声は、相変わらず誰のものでもなく、やさしい。
 でも、その奥に、確かに「私の右隣」がいる。

     *

 帰り道、コンビニで蜂蜜の小瓶を買った。
 封を切ると、指先に少しついて、舐めたら子どものころの風邪の匂いがした。
 湯を沸かし、紅茶にひと筋。ミルクは入れない。
 カップの縁に唇を当てると、合図みたいに喉が緩む。
 私は机にノートを開いて、今日の五行を書く。

 一、彼は私を呼んだ。
 二、私は彼を呼んだ。
 三、仕事と夜の線は、引き直す。
 四、守るために、隠す。
 五、右隣は、いつでも空けておく。

 ノートを閉じて、部屋の灯りを落とす。
 スマホでアプリを開く。
 “深夜0時の子守歌”。通知のベルが、笑ってしまうくらいちょうどのラ――ソ――ミで鳴った。

 特別回の告知が、画面の上部に大きく乗っている。
 ――「0時、君と」。
 白い背景に、無地のヘッドホンのアイコン。
 チャットは早くもざわついている。

――タイトルヤバ
――“君”って、誰
――Linなの?
――いやいや、誰かの“君”でしょ

 私は何も打たない。
 打たないまま、口角だけが浮く。
 部屋の静けさが水槽みたいに四角く、私はそこで魚みたいに呼吸する。

     *

 夜の始まり。
 ラ――ソ――ミ。
 鐘が鳴り、画面に「LIVE」の赤い印が灯る。

『こんばんは。特別回、“0時、君と”。――合言葉は、いつも通り』

 私はベッドの右側に体を向けて、イヤホンを片耳に差し込む。
 雨宮先輩の声が、“L”の形をして世界に出てくる。
 昼間の「音は立てない」キスが、耳の奥で薄く反芻され、鼓膜の裏に小さな火が灯る。

『今日は、読み聞かせの前に、ひとつだけ約束を。
 守るための秘密は、逃げるための秘密とは違う。
 だから、守りながら、少しずつ出していく。
 合図は、“右隣”。』

 チャット欄が、一瞬だけ静かになった。
 画面の文字が止まる。
 誰も打たない三秒間。
 私はその三秒間に、はっきりと幸福を見た。

『では、始めよう。――0:00の鐘、君だけに』

 声が、ノイズひとつない夜道を歩いてくる。
 私は目を閉じ、枕の高さを二センチ下げる。
 布団の縁に頬を押し当て、右隣の空気の温度を確かめる。
 そこは、ちゃんと安全地帯。
 私はもう、線を怖がらない。
 引く線も、跨ぐ線も、ふたりで決める。

 ヘッドホンの片耳が、今夜は私ひとりの耳を抱いている。
 でも、世界のどこかで、同じ音を共有している人がいる。
 “L”の向こう側。
 ガラス越しじゃない距離。
 私はそっと、合言葉を口の中で繰り返し、眠りに落ちる準備をした。

 ――0:00の鐘、君だけに。

 画面の下で、特別回のサムネイルに小さく「予告:公開コラボ」の文字が灯る。
 “0時、君と”。
 公私が交差する次の扉が、静かに、でも確実に開いていく音がした。
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