0時の鐘はあなたへ――推しと先輩が重なる夜
第5話「0時、君と(公開コラボ)」
配信プラットフォームの管理画面は、淡いグレーと白の層でできている。
マイクテスト用のゲージが、呼吸に合わせて細く揺れた。私は裏方用のアカウントでログインし、進行表のタイムラインをもう一度だけ上からなぞる。画面右上の時計が「23:52」を告げ、指先が冷たくなる。氷水に長く触れていたわけでもないのに、特別回の夜は、身体の端だけ気温が違う。
台本のゲストQ欄に、小さな白い印が散っている。
――「0:00の鐘、君だけに」
――「右隣」
――「五行」
外から見れば、詩的な合図の羅列。けれど私には、全部が名前みたいに見える。呼ばれ続けてきた名前。呼び返してきた名前。
「一花さん、ミュートのまま、ボイチェン確認」
エンジニアの声に、私は短く返す。「はい」。
画面の右下、匿名ゲスト用の波形が綺麗に立つ。機械的に少し低めに加工された自分の声は、別人のようで、でも呼吸の抑揚は隠せない。
喉の奥をさっと撫でる感覚が走る。蜂蜜の薄い膜。夕方、出がけに紅茶に落としてきた一本が、まだ効いている。
通知が一斉に舞い込み、観客席の数字が滑るように増える。
「23:59」
――ラ ソ ミ。
ソフトウェアの効果音ではなく、胸の内側で鳴る鐘。
私は片耳のイヤモニを指で押さえ、深く四つ吸い、六つ吐く。
赤い「LIVE」のドットが灯る。
Lの低音が、最初の一行を世界に置いた。
『こんばんは。特別回“0時、君と”。台本は薄め、余白は多め。――合言葉は、いつも通り』
チャット欄が、花火の最初の一発みたいに明るく跳ねた。
――合言葉きた
――“君”って誰?
――Linだよね?(小声)
――いやいや、落ち着けよ
Lは、少し笑った。笑い声まで空気に優しい。
『今夜のゲストは匿名。声は少し変わるけれど、心拍は変わらない。最初の問い。――君の一日を、五行で』
台本の一行目。
私は、息の置き場所を確認してから、ボイチェン越しに答える。
「核だけを、やさしく」
沈黙が半拍。
続けて、私の「五行」を置いていく。
「一、朝の紅茶に蜂蜜を一本。
二、右の階段が空いていて助かった。
三、昼の会議で、言い切ることに成功。
四、夕方に、とても静かな約束をした。
五、夜、ここにいる」
チャットがざわめく。
――右の階段?
――言い切る、って例の広報?
――“静かな約束”って何だよ(知りたい)
Lは、余白と熱のバランスを測る指揮者みたいに、声の角度をほんの少し変えた。
『五行、きれいだ。飾りが落ちても残る形は、君自身だよ。ではこちらの五行も返す。
一、朝、静かに祈った。
二、昼、誰かが走りやすいように道を整えた。
三、夕方、ひとつ線を引き直した。
四、夜、扉を開ける準備をした。
五、今、同じ音を聴いている』
私の胸の奥で、ラ――ソ――ミが一度鳴る。
舞台袖で合図を見つけ合うみたいな、息の揃い方。
初見の視聴者には洒落た台本、常連には、LinとLの再会劇。
台本の二問目に指が触れる。
『では質問二。――君の“安全地帯”は、どこ』
「右隣。これから先も」
『空けておく』
短い往復が、砂糖の粒のように溶けていく。
その甘さに、外の温度が嫉妬するのは、いつものことだ。
チャット欄に、早い流れが混じり始めた。
――彼女、特別扱いじゃない?
――Lin推し露骨すぎ
――“匿名”の意味
スクリーンの前で、モデレーターが火消しに入る。コメントの速度を落とし、荒れた言葉をそっと端へ。
Lは、急がない。急がないけれど、待たない。
『言葉の温度、上がってるね。――ひとつだけ話そう。僕は声で人を救いたいと思っている。ずっと。できれば分け隔てなく。けれど、ある夜から、僕は“救う相手を選んだ”』
うすい静寂が、客席の上に置かれる。
選んだ。
宣言は、思っていたより静かで、思っていたより強かった。
『選んだからといって、他が軽くなるわけじゃない。選ぶことは、誰かを軽んじることじゃない。僕にとって、“彼女を選ぶ”は、僕自身の責任を引き受けることだ』
チャット欄が、迷いながらもゆっくり拍手に変わる。
――そう言えるの、ずるい(褒め)
――選んだ夜、か……
――言い切ったな
私は台本の端を、人差し指でなぞった。紙の角が、爪の薄いところに触れて現実の輪郭を思い出させる。
『ここで、朗読を』
BGMが静かに立ち上がる。「Lin-01」のモチーフ。拍が二つ、三つ。
Lの息の音がミニマムに混ざり、短い物語が始まった。
森に置いた赤い小石の続き。
――迷わないために置いてきたはずの石を、二人で拾い直す夜について。
ページが最後に至ると、Lは合図をくれた。
私は画面には映らないところで、キューライトの小さな点を見つめる。
BGMが変わる。「Lin-∞」。
初めて聴く旋律。∞の記号の真ん中にある小さな交差点に、透明なリボンが結ばれていくような曲。
台本の最後の「タイトル読み上げ」を、私は息を整えて受け取る。
「“Lin-∞”。――∞は、終わらない約束」
視界が少し滲んだ。
Lが、ゆっくりと言葉を置く。
『この放送をもって、彼女と――婚約します』
音が、世界から抜けた。
沈黙。
それから、音が世界に戻ってくる。
――え?
――今、婚約って言った?
――おめでとう!!!
――推しが幸せならそれでいい派の総立ち
――Lin! Lin! Lin!
チャット欄が祝福のスタンプであふれ、画面が甘い色に染まる。
Lは熱を少し鎮めるために、丁寧に息を吐いた。
『ありがとう。匿名のルールは守りながら、できる限り、正面から。ここは“匿名の世界”だから言える順序がある。現実側では、規程を守る順序がある。――どちらも約束する』
私は、裏方の端末から別の画面を立ち上げた。
社内への「事後報告」の草稿。
プロジェクトの完遂スケジュール、コンフリクト回避の配置、兼務の申請、コンプラへの相談窓口、利害関係の透明化。
雨宮――Lであり、雨宮でもある彼――が昼に用意していた文面を、予定通りに送る準備をする。
匿名領域での婚約の宣言は、匿名領域のルールを尊重して行う。社内では規程順守。
同じ情報を、違う秩序で並べる。それだけのこと。だけど、その「それだけ」を間違えない人でいてくれることに、私は深く安堵する。
『最後に、ゲストから一行だけ』
Lが促す。
私はマイクのスイッチを入れて、ボイチェンのランプが緑に変わるのを見届けた。
「右隣を、これからも空けておきます」
『空けておきます』
声と声が、同じ形で重なる。
番組は、波の穏やかな浜のようにエンディングへと滑っていき、Lの「おやすみ」で締めくくられた。
*
配信を切った瞬間、制御室の空気が一気に現実へ戻った。ヘッドセットを外したモデレーターがサムズアップし、エンジニアが「音、完璧でした」とめずらしく声を上げる。
私はマイクのミュートを解除し、深くお辞儀をした。
端末の隅で、新着の通知がぽんぽんと弾ける。
――“おめでとう”の洪水。
――“長く続きますように”の祈り。
――“泣いた”。
見知らぬ誰かの言葉なのに、確かに受け取った実感がある。
そのとき、社用スマホが震えた。
社内匿名掲示板の監視アラート。
画面に飛び込んできた文字列は、砂利混じりの水みたいに荒かった。
《贔屓の可能性》
《枕》
《匿名なら何でも言えると思ってない?》
喉の奥が、一瞬だけ冷えた。
覚悟していた。覚悟していたのに、実際に目にすると、皮膚の表面がざらつく。
私はすぐに管理画面を開き、証跡のログ、編集履歴、決裁の流れ、社外案件の区分、成果の分配基準――雨宮が昼のうちに整えていた資料一式へのリンクを貼る。
「主観の議論」を「事実の列」に変えるための線。
五行で書く。
一、プロジェクトの成果はチームのもので、個人の評価は規程に従う。
二、匿名領域での発言は社内の決裁と切り離されている。
三、配信活動は副業規定に適合し、申請済み。
四、交際の事実はコンプライアンスに報告済み。
五、中傷は許されない。
送信。
言い切る。
夜の声で学んだことを、昼の場所で使う番。
背後から、指先がそっと私の肩に触れた。
振り向かなくても、温度でわかる。
雨宮だ。
「送った?」
「はい」
「ありがとう。――よくやった」
簡潔な肯定が、背中に真っ直ぐ届く。
私は振り返って、彼の顔を見る。
スタジオの灯りは、昼を少しだけ引き延ばしたような白で、彼の目の奥の色を正確に拾った。
「怖くないですか」
「怖いよ。だから、順序を守る」
「順序」
「匿名で言うことと、実名で言うこと。どちらも嘘じゃないように。――それから、右隣を空けること」
彼の口元が少しだけ笑って、すぐに真顔に戻る。
私はコクリと頷いた。
怖さは、嘘を減らすと薄まる。
構図を正しく描けば、輪郭線がきれいになる。赤鉛筆の意味を、私は昼も夜も学んできた。
「帰ろう」
「はい」
スタジオを出ると、ビルの廊下は夜のにおいがした。洗い立てのカーテンみたいな匂い。
自動販売機の明かりが、あなたはお疲れさまと言うように光っている。
帰り際、私は蜂蜜のスティックを二本買った。一本はポケットへ、一本は彼に渡す。
「明日の朝用」
「ありがとう」
彼は、その一本を見てから、私の右隣に立った。
何も言わない。言わないのに、私の歩幅は自然に合う。
エレベーターの前。
扉が開き、私たちは並んで乗り込む。
床の表示が「1」を告げるまでの短い間、彼は小さく呟いた。
「君の右隣は、僕の定位置だ」
ラ――ソ――ミ。
胸の内側で、鐘が鳴った。
その音は、いちど鳴ったら消えない種類の音だと思う。
エレベーターの扉が開く。
夜風が少しだけ甘い。紅茶に落とした蜂蜜の匂いが、遅れて喉に降りてくる。
*
帰宅してシャワーを浴び、濡れた髪をタオルにくるんでいると、スマホが震えた。
社内の匿名掲示板のスレッドに、新しいレス。
――《事実の提示ありがとう。感情はさておき、確認した》
――《中傷をやめよう》
――《結局、仕事してるなら良い》
波は、荒く寄せて、少し退いた。
完全に止むことはないだろう。それでも、砂浜の形は整っていく。
私はドライヤーのスイッチを入れ、温風の音に混ざるように小さく呟く。
「言い切る。事実だけ。五行で」
寝室の灯りを落とす。
ベッドの右側に、いつもより少しだけ広い空気の場所を作る。
スマホの画面はもう閉じて、ラ――ソ――ミは鳴らない。
でも、耳の奥では、かすかな余韻が残っている。∞の曲の、ほどけない輪の手触り。
目を閉じる直前、通知がひとつだけ灯った。
――《社外アカウント》からのDM。
差出人は、匿名のまま。
本文は、五行。
一、荒れてすみませんでした。
二、彼の言い方が静かだったので、怒れなくなりました。
三、あなたの五行、綺麗でした。
四、私も今日、右隣を空けて眠ります。
五、おやすみなさい。
私は胸の前で手を合わせる。
知らない誰かの五行に、心の中で返礼を書いた。
一、こちらこそ、ありがとう。
二、明日も、事実の列で会いましょう。
三、右隣は、広いです。
四、蜂蜜は一本で十分です。
五、おやすみなさい。
目を閉じる。
暗闇は、水槽みたいに正しく四角い。
次の朝、どんな波が来ても、五行で迎える準備だけはできている。
――そのはずだった。
枕に頬を預けた矢先、社用スマホの画面が、寝室の暗がりに青く浮いた。
“匿名掲示板・新規スレッド作成”。
タイトルは、皮肉なほどよく通る文字で。
《“右隣”って誰のこと?》
私は上体を起こし、笑ってしまった。ため息といっしょに。
ねえ、世界。
右隣の席は空いてるよ、と今夜のうちにもう一度、告げ続ける役目があるらしい。
明日は、もう少し堂々と。
守る愛の、番だ。
マイクテスト用のゲージが、呼吸に合わせて細く揺れた。私は裏方用のアカウントでログインし、進行表のタイムラインをもう一度だけ上からなぞる。画面右上の時計が「23:52」を告げ、指先が冷たくなる。氷水に長く触れていたわけでもないのに、特別回の夜は、身体の端だけ気温が違う。
台本のゲストQ欄に、小さな白い印が散っている。
――「0:00の鐘、君だけに」
――「右隣」
――「五行」
外から見れば、詩的な合図の羅列。けれど私には、全部が名前みたいに見える。呼ばれ続けてきた名前。呼び返してきた名前。
「一花さん、ミュートのまま、ボイチェン確認」
エンジニアの声に、私は短く返す。「はい」。
画面の右下、匿名ゲスト用の波形が綺麗に立つ。機械的に少し低めに加工された自分の声は、別人のようで、でも呼吸の抑揚は隠せない。
喉の奥をさっと撫でる感覚が走る。蜂蜜の薄い膜。夕方、出がけに紅茶に落としてきた一本が、まだ効いている。
通知が一斉に舞い込み、観客席の数字が滑るように増える。
「23:59」
――ラ ソ ミ。
ソフトウェアの効果音ではなく、胸の内側で鳴る鐘。
私は片耳のイヤモニを指で押さえ、深く四つ吸い、六つ吐く。
赤い「LIVE」のドットが灯る。
Lの低音が、最初の一行を世界に置いた。
『こんばんは。特別回“0時、君と”。台本は薄め、余白は多め。――合言葉は、いつも通り』
チャット欄が、花火の最初の一発みたいに明るく跳ねた。
――合言葉きた
――“君”って誰?
――Linだよね?(小声)
――いやいや、落ち着けよ
Lは、少し笑った。笑い声まで空気に優しい。
『今夜のゲストは匿名。声は少し変わるけれど、心拍は変わらない。最初の問い。――君の一日を、五行で』
台本の一行目。
私は、息の置き場所を確認してから、ボイチェン越しに答える。
「核だけを、やさしく」
沈黙が半拍。
続けて、私の「五行」を置いていく。
「一、朝の紅茶に蜂蜜を一本。
二、右の階段が空いていて助かった。
三、昼の会議で、言い切ることに成功。
四、夕方に、とても静かな約束をした。
五、夜、ここにいる」
チャットがざわめく。
――右の階段?
――言い切る、って例の広報?
――“静かな約束”って何だよ(知りたい)
Lは、余白と熱のバランスを測る指揮者みたいに、声の角度をほんの少し変えた。
『五行、きれいだ。飾りが落ちても残る形は、君自身だよ。ではこちらの五行も返す。
一、朝、静かに祈った。
二、昼、誰かが走りやすいように道を整えた。
三、夕方、ひとつ線を引き直した。
四、夜、扉を開ける準備をした。
五、今、同じ音を聴いている』
私の胸の奥で、ラ――ソ――ミが一度鳴る。
舞台袖で合図を見つけ合うみたいな、息の揃い方。
初見の視聴者には洒落た台本、常連には、LinとLの再会劇。
台本の二問目に指が触れる。
『では質問二。――君の“安全地帯”は、どこ』
「右隣。これから先も」
『空けておく』
短い往復が、砂糖の粒のように溶けていく。
その甘さに、外の温度が嫉妬するのは、いつものことだ。
チャット欄に、早い流れが混じり始めた。
――彼女、特別扱いじゃない?
――Lin推し露骨すぎ
――“匿名”の意味
スクリーンの前で、モデレーターが火消しに入る。コメントの速度を落とし、荒れた言葉をそっと端へ。
Lは、急がない。急がないけれど、待たない。
『言葉の温度、上がってるね。――ひとつだけ話そう。僕は声で人を救いたいと思っている。ずっと。できれば分け隔てなく。けれど、ある夜から、僕は“救う相手を選んだ”』
うすい静寂が、客席の上に置かれる。
選んだ。
宣言は、思っていたより静かで、思っていたより強かった。
『選んだからといって、他が軽くなるわけじゃない。選ぶことは、誰かを軽んじることじゃない。僕にとって、“彼女を選ぶ”は、僕自身の責任を引き受けることだ』
チャット欄が、迷いながらもゆっくり拍手に変わる。
――そう言えるの、ずるい(褒め)
――選んだ夜、か……
――言い切ったな
私は台本の端を、人差し指でなぞった。紙の角が、爪の薄いところに触れて現実の輪郭を思い出させる。
『ここで、朗読を』
BGMが静かに立ち上がる。「Lin-01」のモチーフ。拍が二つ、三つ。
Lの息の音がミニマムに混ざり、短い物語が始まった。
森に置いた赤い小石の続き。
――迷わないために置いてきたはずの石を、二人で拾い直す夜について。
ページが最後に至ると、Lは合図をくれた。
私は画面には映らないところで、キューライトの小さな点を見つめる。
BGMが変わる。「Lin-∞」。
初めて聴く旋律。∞の記号の真ん中にある小さな交差点に、透明なリボンが結ばれていくような曲。
台本の最後の「タイトル読み上げ」を、私は息を整えて受け取る。
「“Lin-∞”。――∞は、終わらない約束」
視界が少し滲んだ。
Lが、ゆっくりと言葉を置く。
『この放送をもって、彼女と――婚約します』
音が、世界から抜けた。
沈黙。
それから、音が世界に戻ってくる。
――え?
――今、婚約って言った?
――おめでとう!!!
――推しが幸せならそれでいい派の総立ち
――Lin! Lin! Lin!
チャット欄が祝福のスタンプであふれ、画面が甘い色に染まる。
Lは熱を少し鎮めるために、丁寧に息を吐いた。
『ありがとう。匿名のルールは守りながら、できる限り、正面から。ここは“匿名の世界”だから言える順序がある。現実側では、規程を守る順序がある。――どちらも約束する』
私は、裏方の端末から別の画面を立ち上げた。
社内への「事後報告」の草稿。
プロジェクトの完遂スケジュール、コンフリクト回避の配置、兼務の申請、コンプラへの相談窓口、利害関係の透明化。
雨宮――Lであり、雨宮でもある彼――が昼に用意していた文面を、予定通りに送る準備をする。
匿名領域での婚約の宣言は、匿名領域のルールを尊重して行う。社内では規程順守。
同じ情報を、違う秩序で並べる。それだけのこと。だけど、その「それだけ」を間違えない人でいてくれることに、私は深く安堵する。
『最後に、ゲストから一行だけ』
Lが促す。
私はマイクのスイッチを入れて、ボイチェンのランプが緑に変わるのを見届けた。
「右隣を、これからも空けておきます」
『空けておきます』
声と声が、同じ形で重なる。
番組は、波の穏やかな浜のようにエンディングへと滑っていき、Lの「おやすみ」で締めくくられた。
*
配信を切った瞬間、制御室の空気が一気に現実へ戻った。ヘッドセットを外したモデレーターがサムズアップし、エンジニアが「音、完璧でした」とめずらしく声を上げる。
私はマイクのミュートを解除し、深くお辞儀をした。
端末の隅で、新着の通知がぽんぽんと弾ける。
――“おめでとう”の洪水。
――“長く続きますように”の祈り。
――“泣いた”。
見知らぬ誰かの言葉なのに、確かに受け取った実感がある。
そのとき、社用スマホが震えた。
社内匿名掲示板の監視アラート。
画面に飛び込んできた文字列は、砂利混じりの水みたいに荒かった。
《贔屓の可能性》
《枕》
《匿名なら何でも言えると思ってない?》
喉の奥が、一瞬だけ冷えた。
覚悟していた。覚悟していたのに、実際に目にすると、皮膚の表面がざらつく。
私はすぐに管理画面を開き、証跡のログ、編集履歴、決裁の流れ、社外案件の区分、成果の分配基準――雨宮が昼のうちに整えていた資料一式へのリンクを貼る。
「主観の議論」を「事実の列」に変えるための線。
五行で書く。
一、プロジェクトの成果はチームのもので、個人の評価は規程に従う。
二、匿名領域での発言は社内の決裁と切り離されている。
三、配信活動は副業規定に適合し、申請済み。
四、交際の事実はコンプライアンスに報告済み。
五、中傷は許されない。
送信。
言い切る。
夜の声で学んだことを、昼の場所で使う番。
背後から、指先がそっと私の肩に触れた。
振り向かなくても、温度でわかる。
雨宮だ。
「送った?」
「はい」
「ありがとう。――よくやった」
簡潔な肯定が、背中に真っ直ぐ届く。
私は振り返って、彼の顔を見る。
スタジオの灯りは、昼を少しだけ引き延ばしたような白で、彼の目の奥の色を正確に拾った。
「怖くないですか」
「怖いよ。だから、順序を守る」
「順序」
「匿名で言うことと、実名で言うこと。どちらも嘘じゃないように。――それから、右隣を空けること」
彼の口元が少しだけ笑って、すぐに真顔に戻る。
私はコクリと頷いた。
怖さは、嘘を減らすと薄まる。
構図を正しく描けば、輪郭線がきれいになる。赤鉛筆の意味を、私は昼も夜も学んできた。
「帰ろう」
「はい」
スタジオを出ると、ビルの廊下は夜のにおいがした。洗い立てのカーテンみたいな匂い。
自動販売機の明かりが、あなたはお疲れさまと言うように光っている。
帰り際、私は蜂蜜のスティックを二本買った。一本はポケットへ、一本は彼に渡す。
「明日の朝用」
「ありがとう」
彼は、その一本を見てから、私の右隣に立った。
何も言わない。言わないのに、私の歩幅は自然に合う。
エレベーターの前。
扉が開き、私たちは並んで乗り込む。
床の表示が「1」を告げるまでの短い間、彼は小さく呟いた。
「君の右隣は、僕の定位置だ」
ラ――ソ――ミ。
胸の内側で、鐘が鳴った。
その音は、いちど鳴ったら消えない種類の音だと思う。
エレベーターの扉が開く。
夜風が少しだけ甘い。紅茶に落とした蜂蜜の匂いが、遅れて喉に降りてくる。
*
帰宅してシャワーを浴び、濡れた髪をタオルにくるんでいると、スマホが震えた。
社内の匿名掲示板のスレッドに、新しいレス。
――《事実の提示ありがとう。感情はさておき、確認した》
――《中傷をやめよう》
――《結局、仕事してるなら良い》
波は、荒く寄せて、少し退いた。
完全に止むことはないだろう。それでも、砂浜の形は整っていく。
私はドライヤーのスイッチを入れ、温風の音に混ざるように小さく呟く。
「言い切る。事実だけ。五行で」
寝室の灯りを落とす。
ベッドの右側に、いつもより少しだけ広い空気の場所を作る。
スマホの画面はもう閉じて、ラ――ソ――ミは鳴らない。
でも、耳の奥では、かすかな余韻が残っている。∞の曲の、ほどけない輪の手触り。
目を閉じる直前、通知がひとつだけ灯った。
――《社外アカウント》からのDM。
差出人は、匿名のまま。
本文は、五行。
一、荒れてすみませんでした。
二、彼の言い方が静かだったので、怒れなくなりました。
三、あなたの五行、綺麗でした。
四、私も今日、右隣を空けて眠ります。
五、おやすみなさい。
私は胸の前で手を合わせる。
知らない誰かの五行に、心の中で返礼を書いた。
一、こちらこそ、ありがとう。
二、明日も、事実の列で会いましょう。
三、右隣は、広いです。
四、蜂蜜は一本で十分です。
五、おやすみなさい。
目を閉じる。
暗闇は、水槽みたいに正しく四角い。
次の朝、どんな波が来ても、五行で迎える準備だけはできている。
――そのはずだった。
枕に頬を預けた矢先、社用スマホの画面が、寝室の暗がりに青く浮いた。
“匿名掲示板・新規スレッド作成”。
タイトルは、皮肉なほどよく通る文字で。
《“右隣”って誰のこと?》
私は上体を起こし、笑ってしまった。ため息といっしょに。
ねえ、世界。
右隣の席は空いてるよ、と今夜のうちにもう一度、告げ続ける役目があるらしい。
明日は、もう少し堂々と。
守る愛の、番だ。